第七話 境界を越えて
夜。理依が眠りに落ちた、そのさらに奥。
呼吸が整い、思考がほどけ、夢と現実の境目が消えた頃、ゆっくりと、意識が浮上した。
それは目覚めではなかった。
覚醒というより、沈殿していたものが水面に滲み出てくる感覚だった。
ここは。
暗い。だが、完全な闇ではない。
音がある。遠くで、一定のリズムを刻む何か。
心臓の鼓動だと理解するまでに、少し時間がかかった。
その鼓動は、自分のものではない。
そう思った瞬間、思考がわずかにざわめいた。
……ああ。
颯馬は、はっきりと自覚した。
自分は、目を閉じていない。
だが、見えていない。
ここしばらく、彼の意識は「場所」を持っていなかった。
夢のような、霧のような領域で、ただ一つの存在を感じていただけだった。中村理依という、温度を持った魂の気配。触れられないが、離れられない、薄い膜越しの感触。
それが今、変わり始めている。
重さがある。
上下がある。
内と外の区別が、かすかに戻ってくる。
……動ける?
そう思った瞬間、指先が、ぴくりと動いた。
確信はなかった。自分が動かしたのか、偶然なのかも分からない。だが、その小さな変化は、確実に「意思」に反応していた。
もう一度、意識を集中させる。
腕。
手。
全身に力を入れる。
布が擦れる音。
皮膚に伝わる感触。
動いている。
颯馬は、息を詰めた。
長い間、何もできなかった。感じることしかできなかった。その自分が、今、初めて「作用」している。
ゆっくりと、身体を起こす。
首を動かす。視界が、闇の中で輪郭を持ち始める。
部屋。知らない部屋。だが、どこかで何度も見てきた気がする。
机。カーテン。ベッド。
すべてが、理依の記憶の中にあったものだと、直感的に分かる。
足を床につける。冷たい。
その冷たさに、強い実感が伴っていた。
夢ではない。これは、現実の感触だ。
……俺は。
歩く。
足が軽い。重心が低い。体のサイズが違う。
鏡の前に立つまで、時間はかからなかった。
部屋の隅にある、姿見。
そこに映っているのは――中村理依だった。
黒い髪。
幼さの残る輪郭。
眠っていたせいか、少しぼんやりした目。
その顔を見た瞬間、颯馬の中で、何かが静かに崩れた。
……なったんだ。
理解は、遅れてやってきた。
頭では分かっていたはずなのに、実感が伴わなかった。それが今、視覚として突きつけられる。
自分は、ここにいる。
薮下颯馬ではない姿で。
胸の奥が、熱を持つ。
喜びでも恐怖でもない。もっと粘ついた感情。
これが……。
理依の身体。
その瞬間、境界に触れた。
それは意図した行為ではなかった。
鏡を見つめ、自分の存在を確かめた、その「深さ」が、偶然、理依の魂に触れてしまった。
記憶が流れ込んでくる。洪水のような濁流ではない。だが、記憶の断片が、確かに自分の中に流れ込んでくる。
朝の食卓。
笑い声。
友達の名前。
夕焼けの色。
眩しい。
感情が、直接、胸に染み込んでくる。
理依の記憶は、映像というより、温度だった。
その温度に触れた瞬間、颯馬は、はっきりと思った。
……俺の人生は、間違っていた。
自分は空っぽだった。
何も持たず、何も残せず、誰にも必要とされずに生きてきた。
そう思っていた自分が、この記憶に触れた瞬間、ひどく惨めに感じられた。
理依は、持っている。自然に持っている。当たり前のものとして。
理由もなく笑える日常を。疑わずに信じられる世界を。
それを思うたびに、颯馬の中で、自己否定が甘く広がる。
俺なんて、いらなかった。
必要ない存在だった。
消えても忘れられる存在だった。
その否定は、痛みではなかった。
むしろ、心地よかった。
自分を否定することで、理依の記憶が流れ込み、自分が理依に近づいていく。
嫌いな自分を消して、上書きしていく。
そうだ……消してしまえばいい。
こんな自分は。
薮下颯馬という存在を。
孤独で、空虚で、何もなかった人生を。
その快感に、酔いかけた瞬間。
――止まった。
胸の奥で、何かが強く脈打つ。
理依の無意識。
眠りの底にある、拒絶。
はっきりとした意思ではない。
ただ、「これ以上は入らせない」という境界。
記憶の流入が、途切れる。
温度が、引いていく。
「……ちっ」
声にならない声が、喉の奥で引っかかる。悔しさよりも、焦りが勝った。
だが、その一瞬で、颯馬は決定的なものを見てしまった。
理依の記憶の、ほんの一端。
誰かに名前を呼ばれ、振り返る光景。
必要とされている、という確信。
それだけで、十分だった。
……なりたい。
改めて、強く思う。
薮下颯馬としてではなく。この空虚な人生を続けるのではなく。
中村理依として、生きたい。
孤独にしか生きられなかった自分を、否定する。
その否定を、誇らしい人生で塗り潰す。
鏡の中の理依を見つめながら、颯馬は、静かに息を吐いた。
今は、まだ深くは入れない。
だが、確実に、入り口には立った。
理依は眠っている。
何も知らずに。
その無防備さが、颯馬にはあまりにも眩しく見えた。




