第六話 夢の誰か
違和感は、もう誤魔化せる段階を越えていた。
それは突然襲ってくる異変ではなく、静かに、しかし確実に理依の内側に根を張っていくものだった。昨日と今日の差は、ほんのわずかだ。けれど、そのわずかさが積み重なるたびに、「いつもの自分」が遠ざかっていく。
合理的な思考。
最短距離を選び、無駄を切り捨て、感情よりも結果を優先する判断。
理依は、それを意識的にかき消そうとした。
朝、制服に着替えながら、天気予報を聞く。
雨は降らない。気温は昨日より少し高い。だから上着はいらない。そう結論が出た瞬間、理依はぎゅっと唇を噛んだ。
違う。そんなふうに考えなくていい。
ただ、暑いか寒いかで決めればいい。
そう自分に言い聞かせ、あえてカーディガンを手に取る。理由はない。選択に意味を与えないための、意地のような行動だった。
朝食の席でも、同じことが起こる。母親が出した料理を見た瞬間、栄養の偏り、残り物の消費、調理の効率といった言葉が頭に浮かぶ。
理依は、スプーンを握り直した。
味だけ考えよう。
一口食べる。
確かに美味しい。けれど、その感想が浮かぶより先に、「これは悪くない選択だ」という評価が頭をよぎる。その事実に、胸の奥が冷たくなる。
学校へ向かう道でも、思考は勝手に働いた。
信号のタイミング、人の流れ、近道。考えまいとしても、最適解が浮かんでしまう。
理依はわざと、いつもと違う道を選んだ。
遠回りだと分かっている道。時間がかかる道。
それでも、心は軽くならなかった。
「無駄だ」という感覚が、後ろから追いかけてくる。
授業中、先生の説明を聞きながら、次に来る言葉が分かってしまう。
板書の順番、質問の意図。理解している自分を、理依は必死で無視した。
ノートの余白に落書きをする。集中していないふりをする。
それでも、頭の奥では答えが整然と並び続けていた。
やめて。
心の中で、何度もそう言った。
けれど、思考は言うことを聞かない。
消そうとするほど、胸の奥にある何かの存在感は増す。
それは侵入者というより、もともとそこにあった回路が目を覚ましたような感覚だった。
夜。布団に入り、部屋の明かりを消す。
理依は目を閉じ、呼吸に意識を向けた。
一つ、二つ。数える。考えないための作業。
今日は、何も考えない。
そう決めた瞬間、意識は静かに沈んでいった。
夢の中で、理依は知らない場所にいた。
狭い部屋。必要最低限の家具。整えられすぎた空間。そこには、誰かが確かに暮らしている気配があった。
朝、彼は目を覚ます。目覚ましが鳴る前に起きる。支度は手早く、無駄がない。朝食もいつも通り、時計を見て焦ることなく準備を済ませる。スマホでニュースを確認し、電車の遅延も確認する。遅刻しそうなら遅刻しない合理的な手段を考え、実行する。
その人物は、黙々と日常をこなしていた。
職場へ向かい、与えられた仕事を的確に処理する。周囲から頼られ、その仕事を評価される。
誰とも深く関わらない。
けれど、困っている人を見過ごすこともない。仕事で躓いている人がいれば仕事を分けてもらってそのプロジェクトを片付ける。それが終われば自分の仕事に戻る。業務の成果が上がっても気にしない。それは当然のことで彼の能力的に喜ぶことでもなかった。
昼休みは一人食事をする。夜も家で一人食事をする。
ただ、淡々とした時間が流れている。
「すごいな」
理依は、夢の中でそう思った。
あの人は、何でもこなせる。感情に振り回されず、迷いも少ない。
私には、あんなふうにできない。
少しだけ、羨ましい。
それが正直な気持ちだった。もし彼のように何でもできたなら勉強で苦しむことも、テストの不安に押しつぶされることもきっとないはずだから。
その人物の顔は、はっきりしない。
名前も分からない。ただ、「知らない誰か」という存在感だけが、妙に現実味を帯びていた。
目が覚める。理依のいつもの朝。
朝の光が、また同じ角度でカーテンの隙間から差し込んでいる。
昨日と同じ。けれど、同じであることが、少しだけ怖い。
理依は天井を見つめ、深く息を吸った。
起き上がろうとした瞬間。やはり、わずかな遅れがある。
体が動く前に、何かを待っているような感覚。
自分の内側に、もう一つの重さがある。
胸の奥が、微かに温かい。
夢の中の誰かが、まだそこにいるような錯覚。
理依は、その存在に名前を与えなかった。
その存在を認めてしまえば、距離が縮まる気がしたから。
けれど、違和感のある朝は、確かにまたやってきた。
それは昨日よりも確実に今日のほうが、理依の内側に深く入り込んでいた。
そして彼女は、まだ知らない。
その合理的な思考が、夢の中で羨ましいと思った「誰か」の日常と静かに重なり始めていることを。




