エピローグ 続いていく名前(理依)
朝の光は特別な色をしていなかった。
カーテンの隙間から差し込む明るさは昨日とも一昨日とも変わらない。
白すぎず、眩しすぎず、ただ部屋を均等に照らすだけの光。その中を微かな埃がゆっくり舞っている。
理依はベッドの上で静かに目を開けた。
眠りは浅かったはずなのに、身体は不思議と落ち着いている。胸の奥に余計な緊張がない。
隣で恒一が寝返りを打つ。
布団がわずかに擦れ、規則的な呼吸が戻る。そして二人の指に煌めく指輪。
……結婚したんだ。
その事実がようやく身体の奥に染み込んできた。
指輪の重さも、名前が変わったことも、まだ完全には実感できていない。それでも昨夜と同じ部屋で、同じ朝を迎えているという事実だけでいい。
式が終わって、写真が届いて、祝福の言葉が少しずつ静まって。
世界は何事もなかったかのように、日常へ戻っていく。
大きな出来事の後はいつもそうだ。
それがありがたかった。
特別な日が終わっても生活は続く。
食事をして、眠って、働いて。その連続の中に、居場所がある。
理依は静かにベッドを抜け、カーテンを少しだけ開けた。
光が床に伸び、部屋の輪郭がはっきりする。
キッチンに立ち、ポットに水を入れる。
スイッチを入れるといつもの音が返ってくる。
何も変わらない朝。
湯を沸かしながら、理依はふと、あの夜を思い出す。
「君に救われた」
恒一がそう言った夜。
あの言葉は長い間、理依の中で宙に浮いたままだった。
……救った、なんて。
そんな資格、ない。
そう思い続けてきた。
誰かを救うどころか、奪ってきたのだと。
その事実はまだ消えてはいない。
でも、今は少しだけ違う。
……私が。
救われたんだ。
全てを話して、拒まれなかった。
逃げずに語って、受け止められた。
その事実は理屈よりも強く、時間をかけて理依の内側に根を張っていった。
自分が何者だったか。
何をしてしまったか。
それでも、ここに立っている理由。
それを否定されなかったこと。
切り捨てられなかったこと。
それが何よりも救いだった。
……恒一。
あなたが、私を救った。
ようやくその言葉を心の中で言えるようになる。
それは依存ではなく、感謝として静かに形を持っていた。
湯が沸く音が止まり、理依はカップを用意する。
その時だった。
胸の奥とは違う場所で、ほんのわずかな違和感が意識に触れた。
……あ。
理依は思わず動きを止める。
気のせいかもしれない。
体調の変化など、いくらでも理由は考えられる。
でも。
……いる。
言葉になるほど確かなものではない。
けれど守るように無意識に手を当てたくなる場所がある。
下腹部に、そっと意識が向く。
まだ何かを感じ取れるほどではない。
痛みもはっきりした兆候もない。
それでも身体の奥で小さな予感が静かに息をしている。
理依は何も言わない。
今は、まだ。
この感覚に名前を与えるのは少し早い。
確定させるには時間が必要だ。確かめるにはもう少し先の朝が要る。
それでも「いない」と思えない何かが、そこにある。
生命という言葉にはまだ距離がある。けれど続いていくものという感覚だけは、はっきりしていた。
湯気の向こうで足音がする。
恒一が眠たげに目をこすりながら、キッチンに入ってくる。
「おはよう」
「おはよう」
声はいつもと変わらない。
距離も変わらない。
それなのに理依の胸の奥は、ほんの少しだけ違っていた。
恒一がカップを手に取る。
理依は彼の横顔を見つめながら、何も言わずに微笑む。
この人とこれからも朝を迎えていく。
その未来の延長線上に、もう一つ別の時間が芽吹き始めている。
薮下颯馬の人生がここで途切れなかったこと。
中村理依の人生が奪われたままでは終わらなかったこと。
その両方の先に、新しい時間が確かに続こうとしている。
それはやり直しではない。
帳消しでもない。
……私は。
続きとして、生きてる。
代わりではない。
贖罪だけの存在でもない。
選ばれて、選び直して、ここにいる。
恒一がコーヒーを差し出す。
「今日は、どうする?」
「……仕事」
「そっか」
短い沈黙。
「夜は?」
「一緒にご飯」
「了解」
そのやり取りが何よりの証明だった。
特別な言葉はいらない。
誓いを繰り返す必要もない。
続いていく、という事実だけで十分だった。
窓を開けると風が部屋を通り抜ける。
春とも夏とも言えない匂い。
名前をつけなくていい光が、静かに満ちていく。
理依は胸の奥と、その少し下にある感覚をそっと確かめる。
……大丈夫。
私たちは、ちゃんと生きている。
そして。
誰かに渡していく準備もすでに始まっている。
それはまだ小さく、誰にも見えない。
けれど、確かにここにある。
物語はここで終わる。
罪と孤独の物語はここで静かに幕を下ろす。
でも人生は続いていく。
今度は、奪うためではなく、繋ぐために。
理依は静かな朝の中で、その未来をそっと迎え入れていた。
ここまでお読みいただいた読者の皆様、ありがとうございました。
新人賞向けの小説では過去作を推敲したものを提出する予定なのでツイッターで続報をお待ちください。
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