第五十一話 ずっと君と一緒に(恒一)
次回が最終回です。
朝は驚くほど静かだった。
ホテルの高い階にある部屋は外の音をほとんど遮断していて、遠くの街の気配さえ薄い。カーテン越しに差し込む光はいつもと変わらない少し白みがかった朝の色をしている。
それなのに恒一の胸の奥だけが、わずかに早く動いていた。
……今日か。
声に出さずにそう思う。
特別な日だと意識した瞬間、時間が少しだけ重くなる。それは不安というより覚悟に近い感覚だった。
鏡の前に立ち、ネクタイを結ぶ。
何度も練習してきたはずの手順なのに、指先が微妙に言うことを聞かない。布を引く力がほんの少しだけ強くなる。
深呼吸をして、結び目を整える。
鏡に映る自分の顔は見慣れているはずなのに、どこか他人行儀だ。それでも目だけは逃げていなかった。
廊下に出ると、控室へ向かう途中で次々と声を掛けられる。
「おめでとう」
「緊張してる?」
「顔、固いぞ」
恒一は軽く笑って返す。
笑顔は自然に作れる。その奥にはしっかりとした重みもある。彼女が自分に気付かせてくれた感情だ。
誰かの人生を引き受ける、という重さ。
同時に、自分の人生を誰かに差し出すという重さ。
その全てを今背負っている。
理依の父がすっと近づいてきて、肩を軽く叩いた。
「頼むぞ」
短い言葉だった。
余計な説明はない。でも、その一言には真剣な気持ちと心からの祝福が詰まっていた。
恒一はその重さを正面から受け取る。
「はい」
それしか言えなかったがそれで十分だった。
少し離れたところで、理依の母が目元を押さえながら笑っている。
涙ぐんでいるのに、表情はとても穏やかだ。
「幸せにしてあげてね、あ……それは違うわね――」
一度言葉を切ってから、続ける。
「一緒に幸せになってね」
その言葉が胸の奥に静かに沈んでいく。
義務を背負うだけじゃない。一緒に幸せになることも大事なのだ。
「はい。もちろんです」
今度は自然に声が出た。
友人たちも集まっていた。
高校の頃から知っている顔。大学で出会い、何でもない日々を共有してきた人たち。社会人になってから知り合った友人たちも。
「お前がここまで来るとはな」
冗談めかした声に笑いが起きる。
でも、その裏にある祝福は本物だった。
「理依さん、いい人だよな」
「ああ。ほんとに良い人だよ」
その返事は考えるより先に口をついて出た。
迷いのない肯定だった。
少し離れたところで、恒一はある夫婦と目が合った。
颯馬の両親だった。
初めて会った時よりも表情は柔らかい。
今なら彼らと理依の関係も分かる。だから彼らとの関係も大切にしていきたい。
母親が一歩前に出て、深く頭を下げた。
「今日は……ありがとうございます」
声は静かで、震えていなかった。
「息子のことも……覚えていてくださって」
恒一はすぐに首を振る。
「こちらこそです。忘れる、なんてことはありません」
言葉を選びながら、続ける。
「理依が、たくさん話してくれました。颯馬さんのことも、これまでのことも」
父親は少し間を置いてから、低い声で言った。
「……あいつは、不器用なやつだった」
責めるでも嘆くでもない。ただ、事実としての息子の姿を語る父親がいる。
どこか遠くを眺めるような視線が、ふっと恒一を捉えた。
「幸せにするんだぞ」
真っ直ぐ向けられた言葉には託すという重さがあった。
「はい。幸せになります」
はっきりと言えた。
自分の声が少しだけ強く響いた気がする。
やがて音楽が変わる。
控室の空気がわずかに張り詰める。
扉の前に立つと、一瞬、世界が遠くなる。
雑音が消え、視界が狭まる。
……見たら。
全部、決まる。
扉がゆっくりと開いた。
白い光の中で、理依が立っていた。
その瞬間、言葉が消えた。
ドレスの形も、花の色も、装飾の細部も、もうどうでもよかった。
ただ。
……綺麗だ。
それ以上の表現が見つからない。
これまでの時間。
迷い。
衝突。
沈黙。
不安。
痛み。
その全てがこの瞬間のためにあったかのように、静かに肯定されていく。
近づくにつれて、理依がほんの少しだけ笑った。それは作られた笑顔ではなかった。
緊張と安堵と、長い時間の果てに辿り着いた確信が自然に混ざった笑顔だった。
誓いの言葉を交わす。
恒一の声は震えなかった。
不思議なほど、落ち着いていた。
誓いのキス。
触れた瞬間、恒一は理依の表情を間近で見た。その笑顔はこれまで見てきたどんな笑顔よりも、幸せそうだった。安心しきったようで、それでいて未来を見据えている。
胸の奥に確かな感情が広がる。
それは情熱ではない。激しさや高揚とは違う。
静かで、でも確かに続いていくと分かる愛情だった。
日々の中で呼吸のように存在し続けるもの。
……この人だ。
確信は静かだった。
拍手の音が波のように押し寄せる。
恒一は理依の手を握りながら思う。
……大丈夫だ。
俺たちは。
ちゃんと、ここまで来た。
そして。
これからもずっと君と一緒に生きていく。
今日という日はゴールではない。
ただ並んで進むことをみんなの前で確認した日だ。
夜はまた訪れる。日常も続いていく。
そこには罪悪感が完全に消えない日もあるだろう。
それでも受け入れられたという事実が、理解されたという記憶が、痛みだけを静かに取り去っていく。
恒一はその重さを、確かに受け取っていた。




