第五話 ズレる選択
朝、制服に袖を通した瞬間、理依はわずかに眉をひそめた。
布地が肌に触れる感覚が、いつもよりはっきりしている。違和感というほどではない。ただ、無意識にやってきた動作が、今日は一つ一つ意識に引っかかる。
リボンの位置が、気になった。鏡の前に立ち、首元を覗き込む。左右の傾き。結び目の高さ。昨日までなら視界の端で処理していたはずの情報が、今日は中央に浮かび上がってくる。
結び直す。少し直す。また、ほどく。
鏡の中の自分は、変わっていない。
それなのに、納得できない。どこかが、わずかにずれている気がする。
「……こんなに几帳面だったっけ、私」
独り言は、声に出した瞬間に少しだけ他人行儀に聞こえた。
自分の声なのに、距離がある。確認するように、もう一度リボンを整えてから、ようやくその場を離れた。
登校時間ぎりぎり。いつもなら胸の奥がそわそわして、小走りになるところだ。けれど今日は、自然と歩いていた。急ぐ理由が見当たらない。頭の中で時間を逆算すれば、間に合うと分かる。
なぜ分かるのか。
その計算を、いつしたのか。
考えようとすると、もう答えだけがそこにある。
信号が変わる前に横断歩道へ踏み出しそうになり、理依は足を止めた。
「……今、渡ろうとした?」
赤信号。確かに、体は前に出かけていた。迷いはなかった。判断が早すぎるというより、判断という工程が抜け落ちていたような感覚。
背筋に、冷たいものが走る。危ない、と思うより先に、止まれたことに安堵している自分がいる。それもまた、少しおかしかった。
学校に着くと、友達が駆け寄ってきた。
いつもの朝の風景。いつもの距離感。
「理依、今日の英語の小テスト、やばくない?」
その言葉を聞いた瞬間、今までの問題の傾向が頭に浮かんだ気がした。
文章題、空欄補充、単語。そして指定された範囲。まだ実際にテスト用紙を見てもいないのに、形だけが予想できた。
「……たぶん、大丈夫」
反射的に出た言葉だった。自信を持とうとしたわけじゃない。否定する理由が、見当たらなかっただけ。
テスト後、解答用紙が返却される。
赤ペンで、ほとんど隙間なく丸がついている。
「え、理依こんなにできたっけ?」
声をかけられて、理依は一瞬言葉に詰まった。
嬉しいはずなのに、喜びが遅れてやってくる。努力した感触が薄い成果は、どこか落ち着かない。
「……たまたま、かな」
笑って誤魔化す。
その笑顔が、少しだけ硬いことを、自分でも分かっていた。
昼休み。購買の前で並びながら、理依は棚を眺める。パンの種類、値段、賞味期限。視線が自然と比較を始めている。
以前なら、直感だった。美味しそうかどうか。今の気分に合うかどうか。
しかし今日は違う。
より合理的なものが、自然と残る。
その考えに気づいて、胸の奥がきゅっと縮む。
合理的。その言葉が頭をよぎり、すぐに振り払う。自分らしくない、と感じる前に、選択はもう終わっていた。
午後の授業で、先生が質問を投げかけた瞬間。
理依の手は、気づけば上がっていた。
挙げた瞬間に、自分でも驚く。
注目されるのは得意じゃない。間違えたらどうしよう、という不安が、いつもなら先に立つ。
でも今日は、答えがはっきり見えてしまっていた。
見えてしまった以上、黙っている理由がなかった。
教室にざわめきが広がる。
先生が満足そうに頷く。
そのとき、理依ははっきりと感じた。
選択が、前より少ない。
迷う前に決めてしまう。
選ぶ前に答えがある。
それは楽だった。無駄がなく、失敗もしにくい。頭を悩ませる時間が減る。
けれど同時に、どこか窮屈だった。
自分で選んでいる感覚が、薄れていく。
放課後、友達に誘われた寄り道を、理依は断った。
「今日は、まっすぐ帰る」
言葉にしてから、自分でも意外に思う。
友達と帰るのは嫌いじゃない。むしろ楽しいはずだ。それなのに、胸の奥で「今は違う」という静かな声がした。
理由はない。ただ、そうするのが正しいような気がした。
帰り道、夕方の住宅街を歩きながら、理依はふと立ち止まる。
空が少し暗くなり始めている。風の音。家々から漏れる生活の気配。
「……私、どうしたんだろ」
呟いても、答えは返ってこない。
けれど沈黙の中に、確かな存在感がある。否定できない重さ。
夜。宿題を終え、布団に入る。目を閉じると、思考が二重になる感覚があった。考えている自分を、少し離れた場所からなぞっているような。
選択が、ズレていく。
小さく、静かに、確実に。
まだ恐怖はない。
けれど理依は、薄々気づき始めていた。
これは偶然じゃない。
自分の中で、何かが変わり始めていることを。
その変化が、どういうものなのかを、まだ知らないまま。
そして、その「知らなさ」こそが、
一番不自然なまま、眠りの底へ沈んでいった。




