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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第五話 ズレる選択

 朝、制服に袖を通した瞬間、理依はわずかに眉をひそめた。

布地が肌に触れる感覚が、いつもよりはっきりしている。違和感というほどではない。ただ、無意識にやってきた動作が、今日は一つ一つ意識に引っかかる。


 リボンの位置が、気になった。鏡の前に立ち、首元を覗き込む。左右の傾き。結び目の高さ。昨日までなら視界の端で処理していたはずの情報が、今日は中央に浮かび上がってくる。


 結び直す。少し直す。また、ほどく。


 鏡の中の自分は、変わっていない。

それなのに、納得できない。どこかが、わずかにずれている気がする。


「……こんなに几帳面だったっけ、私」


 独り言は、声に出した瞬間に少しだけ他人行儀に聞こえた。

自分の声なのに、距離がある。確認するように、もう一度リボンを整えてから、ようやくその場を離れた。


 登校時間ぎりぎり。いつもなら胸の奥がそわそわして、小走りになるところだ。けれど今日は、自然と歩いていた。急ぐ理由が見当たらない。頭の中で時間を逆算すれば、間に合うと分かる。


 なぜ分かるのか。

その計算を、いつしたのか。

考えようとすると、もう答えだけがそこにある。


 信号が変わる前に横断歩道へ踏み出しそうになり、理依は足を止めた。


「……今、渡ろうとした?」


 赤信号。確かに、体は前に出かけていた。迷いはなかった。判断が早すぎるというより、判断という工程が抜け落ちていたような感覚。


 背筋に、冷たいものが走る。危ない、と思うより先に、止まれたことに安堵している自分がいる。それもまた、少しおかしかった。


 学校に着くと、友達が駆け寄ってきた。

いつもの朝の風景。いつもの距離感。


「理依、今日の英語の小テスト、やばくない?」


 その言葉を聞いた瞬間、今までの問題の傾向が頭に浮かんだ気がした。

文章題、空欄補充、単語。そして指定された範囲。まだ実際にテスト用紙を見てもいないのに、形だけが予想できた。


「……たぶん、大丈夫」


 反射的に出た言葉だった。自信を持とうとしたわけじゃない。否定する理由が、見当たらなかっただけ。


 テスト後、解答用紙が返却される。

赤ペンで、ほとんど隙間なく丸がついている。


「え、理依こんなにできたっけ?」


 声をかけられて、理依は一瞬言葉に詰まった。

嬉しいはずなのに、喜びが遅れてやってくる。努力した感触が薄い成果は、どこか落ち着かない。


「……たまたま、かな」


 笑って誤魔化す。

その笑顔が、少しだけ硬いことを、自分でも分かっていた。


 昼休み。購買の前で並びながら、理依は棚を眺める。パンの種類、値段、賞味期限。視線が自然と比較を始めている。


 以前なら、直感だった。美味しそうかどうか。今の気分に合うかどうか。

しかし今日は違う。


 より合理的なものが、自然と残る。

その考えに気づいて、胸の奥がきゅっと縮む。


 合理的。その言葉が頭をよぎり、すぐに振り払う。自分らしくない、と感じる前に、選択はもう終わっていた。


 午後の授業で、先生が質問を投げかけた瞬間。

理依の手は、気づけば上がっていた。


 挙げた瞬間に、自分でも驚く。

注目されるのは得意じゃない。間違えたらどうしよう、という不安が、いつもなら先に立つ。


 でも今日は、答えがはっきり見えてしまっていた。

見えてしまった以上、黙っている理由がなかった。


 教室にざわめきが広がる。

先生が満足そうに頷く。


 そのとき、理依ははっきりと感じた。


 選択が、前より少ない。


 迷う前に決めてしまう。

選ぶ前に答えがある。


 それは楽だった。無駄がなく、失敗もしにくい。頭を悩ませる時間が減る。


 けれど同時に、どこか窮屈だった。

自分で選んでいる感覚が、薄れていく。


 放課後、友達に誘われた寄り道を、理依は断った。


「今日は、まっすぐ帰る」


 言葉にしてから、自分でも意外に思う。

友達と帰るのは嫌いじゃない。むしろ楽しいはずだ。それなのに、胸の奥で「今は違う」という静かな声がした。


 理由はない。ただ、そうするのが正しいような気がした。


 帰り道、夕方の住宅街を歩きながら、理依はふと立ち止まる。

空が少し暗くなり始めている。風の音。家々から漏れる生活の気配。


「……私、どうしたんだろ」


 呟いても、答えは返ってこない。

けれど沈黙の中に、確かな存在感がある。否定できない重さ。


 夜。宿題を終え、布団に入る。目を閉じると、思考が二重になる感覚があった。考えている自分を、少し離れた場所からなぞっているような。


 選択が、ズレていく。

小さく、静かに、確実に。


 まだ恐怖はない。

けれど理依は、薄々気づき始めていた。


 これは偶然じゃない。


 自分の中で、何かが変わり始めていることを。

その変化が、どういうものなのかを、まだ知らないまま。


 そして、その「知らなさ」こそが、

一番不自然なまま、眠りの底へ沈んでいった。

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