第四十八話 告白
夜は静かだった。
街の音はすっかり遠のき、窓の外には均一な闇が広がっている。街灯の光が舗道に淡く溜まり、世界が息を止めているように見えた。
遠くで車が通り過ぎたはずなのに、その音すらもう思い出せない。
時間だけが部屋の中に沈殿している。
理依はリビングのソファに腰を下ろしたまま、ほとんど動けずにいた。
昼間から続く吐き気は夜になっても引かず、喉の奥には薄い苦味が張り付いたままだ。
唾を飲み込むたびに胃の奥が揺れ、身体の内側がここに存在することを拒んでいる。
照明は落としてあるのに、視界に入る輪郭は鋭い。
少し目を動かしただけで、床と壁がゆっくり傾き、世界の中心がずれていく。
立っているだけでつらい、という感覚は体調不良という言葉では足りなかった。この身体で、この場所にいること自体が、どこか間違っている。
恒一はキッチンから水を持ってきて、何も言わずにテーブルに置いた。距離を詰めすぎないようにしながら、理依の隣に腰を下ろす。
その沈黙が配慮だと分かっているからこそ、重かった。
仕事を休む連絡には返信があった。同僚や先輩たちからの心配の言葉。
「大丈夫か」
「無理しないでね」
「何かあったら言って」
どれも優しく、責める気配は一切ない。
その善意を目にするたび、胸の奥が裂けるように痛んだ。
自分はそんなふうに気遣われる側の人間ではない。
信頼され、役割を与えられている場所に、今の自分が立っていること自体が耐え難かった。
スマートフォンを伏せても文字の残像が消えない。
このまま黙っていれば、理依としての生活は続く。恒一の隣で過ごす日々も、明日も、当たり前のように守られる。
それが何よりも怖かった。
この静かな夜が嘘の上に積み重なっていると、もう知ってしまったから。
理依は膝の上で手を組む。
指先は冷たく、感覚が鈍い。
この身体が自分のものではないという感覚は時間が経つほど、より鮮明になっていく。
「恒一、話がある」
声を出した瞬間、視界が揺れた。
恒一がゆっくりとこちらを見る。
一度言えば、もう戻れない。
それでもここで黙るほうが自分を完全に壊すと分かっていた。
理依は視線を落としたまま、言葉を選ぶ。
「最初に言うね。私は、本当の中村理依じゃない。ここにいる私は理依として生きてるけど、この人生を生き始めた存在は、藪下颯馬っていう人間だった」
名前を口にした瞬間、心臓が強く脈打つ。
恒一の反応を見る余裕はない。見たら、崩れる。
「颯馬は孤独で、誰とも深く繋がれなくて、他人の人生がずっと眩しかった。理依の人生が特別だったわけじゃない。ただ、家族がいて、帰る場所があって、未来が続いていた。そんな誰かといる時間が欲しかった」
息を整えてから、続ける。
「でも正直に言うと、最初にどうするつもりだったのか、もう自分でも分からない。ただ、事実として言えるのは、戻れなくなったってこと」
理依は言葉を選びながら、はっきりと告げる。
「理依の意識と、颯馬だった私の意識は、分かれたままじゃいられなくなった。上書きでも、入れ替わりでもなくて、混ざって、溶けて、一つの魂に変質した。だから、本物の理依を戻すことは、もうできない」
沈黙が、部屋に落ちる。
「それでも私は、理依として生き続けることを選んだ。怖かった。この生活を失うのが、あなたを失うのが」
胸の奥が、重く沈む。
「家族も、仕事も、あなたとの関係も、全部、私が奪った」
理依はそこで一度、息を止める。
言わなければならないことが、まだ残っていた。
「でも……一つだけ、はっきり言えることがある」
ゆっくり、顔を上げる。
「あなたを愛してる気持ちは、本当だ」
それは取り繕いでも、同情を引くための言葉でもない。
この身体で、この魂で、確かに感じてきた感情だった。
「理依として過ごした時間も、あなたと笑ったことも、守りたいと思った気持ちも、全部、本物だった」
だからこそ、逃げられなかった。
「だから、選ぶ権利はあなたにある。もし、私を受け入れられないなら、私は二度とあなたの前に現れない。この家も、この生活も、全部捨てる。会わない」
その言葉を口にした瞬間、理依の中で何かが確かに砕けた。
自分の手で一番大切なものを切り落とす感覚だった。
「これは償いじゃない。今の私が、あなたのためにできる、唯一のこと」
息が苦しい。
胸が痛む。
それでも、理依は言い切った。
全てを失う恐怖が、夜の底から這い上がり、心臓を締めつける。
明日が消えるかもしれない。
名前も、居場所も、すべて。
それでも。
恒一を騙したまま生き続けるより、愛している気持ちごとここに差し出す方が正しいと信じた。
理依は震えながら、そこに座っていた。
砕けた心を抱えたまま、返ってくる言葉をまだ聞かないで。




