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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第四十七話 不幸にしたくない

 その朝、理依は起き上がることができなかった。


 目は覚めている。

天井の染みも、カーテンの隙間から差し込む朝の光も、はっきりと見えている。

それなのに身体だけが、そこに追いついてこなかった。


 手を動かそうとすると意識が先に震える。


 ……この手は。

 理依から奪った。


 ただ指を曲げただけなのに、胸の奥がぐらりと揺れた。

視界がわずかに回る。


 足を下ろそうとする。

床に触れた瞬間、冷たさより先に罪悪感が走った。


 ……この足で。

 歩いてる。

 本当は、本物の理依が歩くはずだった。


 心臓が、どくりと音を立てる。

吐き気が込み上げ、慌てて布団に手をつく。


 身体を動かすことそのものが耐え難かった。

息をすること、瞬きをすること、立ち上がろうとすること。

その全てが「奪ったものの上に立っている」という自覚を伴ってしまう。


 世界がゆっくりと回り始めた。


 回転する天井。

歪む光。

耳の奥で鳴る、血の音。


「……理依?」


 隣で眠っていた恒一が身じろぎして声をかける。


 その名前を呼ばれただけで胸が締めつけられた。


「……ごめん」


 反射的にそう呟いていた。


「え?」


 恒一がすぐに身体を起こす。

理依の顔を覗き込み、異変に気づいたのが分かる。


「どうした? 顔、真っ青だよ」


 理依は答えられなかった。

言葉にしようとした瞬間、喉が詰まり、涙が滲む。


 理由を説明できない。

説明したら、壊れてしまう。


「……立てる?」


 恒一の手が、そっと伸びる。

その温度に触れた瞬間、理依の中で何かが決壊した。


 ……触れられない。

 この人に。

 こんなふうに。


 罪悪感が雪崩のように押し寄せる。


「……っ」


 声にならない音が漏れる。

視界が暗くなり、理依は力なくベッドに戻った。


 その日は仕事に行けなかった。


 連絡を入れるためにスマートフォンを手に取る。

それだけで胸が苦しくなる。


 ……仕事も。

 この身体でしてる。

 理依の人生で。


 指が震え、文字を打つのに時間がかかった。

簡単な欠勤連絡がやけに重い。


 恒一は何も言わなかった。


 代わりに水を持ってきて、理依の背中にクッションを当て、静かに部屋のカーテンを閉めた。

光が柔らかく遮られる。


「今日は、休もう。無理しなくていい」


 その声は優しかった。

だからこそ理依の心を深く抉った。


 ……やめて。

 そんなふうにしないで。

 私は。

 あなたに。


 何度も心の中で謝る。

でも、言葉にはならない。


 横になっていても罪悪感は消えない。

自分の呼吸の音がうるさく感じる。


 ……息をしてる。

 この身体で。

 本当は、理依がしているはずだった。


 吐き気が込み上げ、理依は口元を押さえた。


 恒一はすぐに気づく。


「大丈夫? 水、もう一杯持ってくる?」


 その気遣いがさらに罪の意識を積み重ねる。


 ……優しくしないで。

 私が。

 どれだけ。


 胸の奥が焼けるように痛む。


「……ごめん」


 理依はまたそう言っていた。


 恒一は眉をひそめる。


「どうして謝るの。何も悪いことしてないだろ」


 その言葉が耐えられなかった。


 ……してる。

 取り返しのつかないことを。


 理依は目を閉じる。

閉じても、暗闇は訪れない。

夢の廊下が現実に滲んでいる。


 中村理依の視線。

 颯馬の声。

 そして、恒一を欺いているという事実。


 ……もう。

 限界だ。


 心がはっきりと音を立てて、悲鳴を上げていた。


 午後になっても回復しなかった。

少し身体を起こすだけで視界が揺れる。

歩けないわけじゃない。でも一歩ごとに罪が足元から絡みつく。


 恒一は付きっきりだった。


 食べられそうなものを選び、無理に勧めることはしない。

体温を測り、氷嚢を用意し、静かな声で話しかける。


 その全てが理依にとっては拷問のような時間だった。


 ……この人は。

 何も知らない。

 私が。

 どれだけ自分勝手で。

 醜い人間なのかを。


 自己嫌悪が波のように押し寄せる。


「……ごめん……ごめんなさい」


 意味のない謝罪を何度も繰り返す。


 恒一は困ったように笑う。


「だから、謝らなくていいって。今日は、俺がいるから」


 その言葉を聞いた瞬間、理依の中で何かが決まった。


 ……違う。

 それじゃ、だめだ。

 この人を。

 ここに縛りつけたまま。

 何も言わないのは。


 胸の奥が静かに冷えていく。


 それは絶望ではなかった。

諦めでもない。


 覚悟だった。


 ……失ってもいい。

 本当は失いたくない。

 この幸せが。

 それでも。

 全部、なくなっても。


 それでも。


 ……それでも。

 恒一を。

 騙したままにするほうが。

 ずっと、残酷だ。


 自分が苦しむことより、この人を不幸にしてしまうことのほうが耐えられなかった。


 理依はゆっくりと目を開ける。


 天井ではなく、眠そうな顔でこちらを見ている恒一を見る。


 この人を愛している。世界で一番。


 だからこそ。


 ……話さなきゃ。

 全部。

 逃げずに。


 言葉にしたら壊れるかもしれない。

今の生活も、未来も、信頼も。


 それでも真実を知らないまま隣にいるほうが、この人にとってきっと不幸だ。


 理依は胸の奥で静かに息を吸う。


 まだ声には出さない。

でも心はもう決めていた。


 この罪を一人で抱えたまま、生き続けることはできない。


 例え全てを失うとしても。

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