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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第四十五話 増殖する夜

 同棲を始めて、少し経った頃だった。


 最初に異変が起きたのは夜ではなく、朝だった。


 目覚ましが鳴っても、身体がすぐに起き上がらない。

まぶたを開けた瞬間、天井の白が夢の暗さと重なって見える。蛍光灯の点かない廊下、反響する足音、背中に残る視線。それらが目覚めと同時に現実へにじみ出してくる。


「……大丈夫?」


 洗面所から、恒一の声がする。


「うん」


 即答する。

声は、いつも通りに出た。

ただ心が少しだけ遅れている。


 生活は、穏やかなはずだった。

朝は並んで歯を磨き、夜は他愛ない話をして眠る。


 それなのに、朝の支度が少しずつ歪み始めた。

シャツのボタンを留め間違え、鏡の前でやり直す。

バッグの中を必要以上に確認する。


 ……疲れてるだけ。


 そう思おうとする。

理由を深く考えないようにする。


 職場に着くと相談室の白い机がやけに冷たく感じた。

記録用紙を広げ、ペンを持つ。けれど文字が視界に定着しない。意味が少し遅れて頭に届く。


 午前の相談者が椅子に座る。


「今日は、どんなことがありましたか」


 声は出る。

いつも通りの高さ、いつも通りの速さ。


 だが相手の話の途中で、意識の端に暗い廊下が立ち上がる。

夢の中の足音が、現実の沈黙に混じる。


「奪っただろ」


 その言葉が頭の奥で反響する。


 理依は瞬きを繰り返し、視線を相手の手元に戻す。

今、ここにいる。

そう何度も心の中で繰り返す。


 相手は気づいていない。

それがなぜか怖かった。


 沈黙を待つこと。

 急がせないこと。


 それは今まで自然にできていた。

けれどこの日は沈黙が長く感じられる。

待っているつもりで、実は自分の内側の声に耳を澄ませてしまっている。


 相談が終わり、ドアが閉まる音がした瞬間、理依は大きく息を吐いた。

胸の奥がじくじくと痛む。


 ……さっきは、危なかった。


 午後も同じだった。


 記録用紙に向かい、何度も書き直す。

文章のつなぎがうまく決まらない。

制度の整理が頭の中で噛み合わない。


 普段なら自然に動く思考が途中で引っかかる。

代わりに浮かぶのは、夢の断片だ。


 中村理依の、強い目。

颯馬の、淡々とした声。

「返して」という言葉。


 ペンを握る指に、力が入りすぎる。

指先が白くなる。


 時計を見る。

時間だけが過剰に進んでいく。


 ……夜、眠れてないから。


 理由はそれだけだと思いたかった。

悪夢が原因だと認めてしまうと、何かが決定的になる気がした。


 帰り道、駅の構内で人の流れに身を任せながら、ふと背後を振り返る。

誰かに呼ばれた気がした。


 もちろん誰もいない。


 それでも背中が冷える。

胸の奥がきゅっと縮む。


 ……大丈夫。


 小さく呟き、スマートフォンを握りしめる。

画面に映る時刻が現実に引き戻してくれる。


 家に帰ると、恒一がキッチンに立っていた。

フライパンの音。湯気の立つ匂い。


「おかえり」


 その声に、胸の奥が少しだけ緩む。


「ただいま」


 返事をしながら、靴を揃えるのに手間取る。

玄関の照明がやけに白く感じる。


 夕食中、会話はいつも通りだ。

仕事の話。今日あった、どうでもいい出来事。


 理依は笑う。

頷く。

相槌を打つ。


 でも、箸を持つ手が時々止まる。

視界の端で廊下の暗さが揺れる。


「……疲れてる?」


 恒一が皿を置きながら聞く。


「ううん」


 すぐに否定する。

否定しないといけない気がした。


「最近、忙しいだけ」


 それ以上、言わない。


 その夜も悪夢を見た。


 暗い廊下。

 責める声。

 問いかけ。


 目が覚めると息が荒い。

喉がひどく渇いている。


 隣を見ると、恒一は眠っている。

規則正しい呼吸。


 起こさないように、そっと布団を抜け出す。

リビングのソファに座り、膝を抱える。


 眠るのが怖い。

でも起きているのも辛い。


 睡眠は細切れになり回復しない。


 昼間、相談者の言葉が必要以上に胸に刺さる。

罪悪感や後悔の話が自分の中の棘に触れて、増幅する。


「……それは、誰の人生?」


 夢の問いが、現実の声と重なる。


 理依はペンを落とした。

乾いた音がやけに大きく響く。


 同僚が心配そうに声をかける。


「大丈夫?」


「……はい」


 笑おうとして、うまく口角が上がらない。


 帰宅時間が少しずつ遅くなる。

仕事を片付けるのに以前より時間がかかるからだ。


 数日後、恒一ははっきりと気づいた。

食後、ソファに並んで座っているときだった。


「……最近さ」


 テレビの音量を下げて、恒一が言う。


「笑ってるけど」


 少し間を置いて。


「目が、全然休んでない」


 理依は心臓が跳ねるのを感じた。


「……大丈夫だよ」


 声を少し明るくする。


「ちょっと、生活変わったから。慣れてないだけ」


 恒一はじっと理依を見る。

疑っているわけじゃない。

心配しているだけだ。


「無理してない?」


 その問いに理依は笑って頷く。


「してない」


 している。

けれど、それは言えない。


 言えば、心配させてしまう。

 言えば、今の穏やかさが揺らぐ。


 その優しさを壊したくなかった。


 その夜、理依は眠らず天井を見つめた。

夢の声はもう外からじゃない。

昼の出来事と混ざり合い、自分の中で増えている。


 それでも今は話さない。


 ……大丈夫。

 私が、ちゃんと耐えれば。


 そう思おうとする。


 心配されるより先に、壊れるより先に、まず自分が踏みとどまる。


 朝が来るのを待ちながら理依は誰にも気づかれないように、静かに息を整えていた。


 きっと大丈夫。

そう、自分に言い聞かせながら。

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