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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第四十三話 生活を並べる距離

 それから時間は静かに流れた。


 卒業。

 就職。

 自らの肩書に「社会人」という文字が加わる。


 理依は、社会福祉士として働いていた。


 朝、相談室の鍵を開けると、まだ誰もいない白い部屋に外の光が差し込む。窓辺の観葉植物の葉に淡い影が落ちる。白い机、揃えられた記録用紙、ペン立ての角度。昨日の終わりに整えたはずなのに、もう一度だけ手を伸ばして確かめる。


 深く息を吸う。

一日の始まりはいつもそこからだった。


 午前の相談者は緊張した面持ちで椅子に腰掛ける。肩は固く、指先が落ち着かず、膝の上で絡まる。


「今日は、どんなことがありましたか」


 理依は声を低く柔らかくする。

急がせない。沈黙が訪れても、時計を見ない。相手の言葉が形になるまで、ただ、そこにいる。


 答えは人の数だけ違う。

正解はどこにも用意されていない。


 颯馬の知識は、確かに役立つ。制度の仕組み、申請の流れ、期限、選択肢。頭の中で情報を整理し、道筋を示す。

けれど、最後に相手の前に残るのは、理依の感性だった。


 沈黙を待つこと。

「分からない」と一緒に立つこと。

決断を、相手の手に返すこと。


 相談の終わり、相手が小さく息を吐く瞬間がある。その微かな変化を理依は見逃さない。


「……話して、よかったです」


 そう言われるたび、胸の奥に静かな温かさが灯る。


 忙しい。

正直、楽ではない。


 記録は積み重なり、会議は短く鋭く、電話は容赦なく鳴る。夕方には頭の奥が鈍く疲れる。


 それでも帰り道で思う。


 ……ここに来て、よかった。


 駅へ向かう道、夕焼けがビルの隙間に滲む。今日の会話を反芻する。言葉を選んだ間。視線の揺れ。頷きの速さ。どれもが、誰かの次の一歩につながっている。


 その充実感の中で、ふと胸の奥がちくりと痛む。


 理由は分からない。

仕事が嫌なわけでもない。むしろ、満たされている。


 ……今の、何。


 足を止めるほどではない。

けれど確かに、そこに棘がある。


 恒一も、社会人になっていた。


 仕事内容は違う。

忙しさの質も違う。


 それでも二人は互いの職場ができるだけ近くなるよう選んだ。朝の電車は別でも、帰りの方向が同じだというだけで心が軽くなる。


 平日の夜、短い通話。


「今日は?」


「まあまあ」


「それ、最近よく聞くな」


「悪くないって意味」


 通話の向こうで、息を整える気配がする。疲れはある。それでも声には余白がある。互いにそれを感じ取る。


 ある日、残業を終えた理依は駅前のベンチに腰を下ろし、夜風に当たった。街灯の光が舗道に淡く滲む。恒一はまだ残業らしい。それでもその休憩時間に電話をくれた。


「……そろそろ引っ越し、考えようかなって。通勤、少し遠くて」


 理依がそう言うと電話の向こうで恒一が少し黙る。遠くで、電車の通過音。


「……それさ」


「うん?」


「一緒に住むって、どう?」


 一瞬、言葉が出なかった。


 ……同棲。


 胸が静かに跳ねる。

その瞬間、また棘が疼いた。


 嬉しい。

とても嬉しい。


 それなのに胸の奥で何かがひっかかる。


「……急だね」


 理依が聞くと、恒一はすぐ答える。


「急がせたいわけじゃない。ただ――」


 一拍。


「生活、もう並んでる気がして」


 それもそうだった。もうお互いの家に泊まったり、休日を過ごしたりすることが当たり前になっていた。同じ時間に起きて、仕事の話をして、疲れた夜に同じ人に戻る。


 ……確かに。

 もう、重なってる。


 そう思った瞬間、棘が少しだけ深く刺さる。


 ……どうして。

 幸せなのに。


 答えは出ない。


「……いいと思う」


 理依はゆっくり言う。


「一緒に住むなら。ちゃんと、話し合って決めたい」


 電話の向こうで恒一が笑う。


「それでいい。むしろ、それがいい」


 週末、二人は小さな喫茶店で会った。木のテーブル、低い天井、静かな音楽。窓際の席で、湯気の立つカップを挟む。


 間取り。

通勤時間。

洗濯の頻度。

休日の過ごし方。


 現実的な話ばかりなのに、心が弾む。その弾みの中でまた棘が疼く。


 ……増えてる。

 幸せが増えるたびに。


 理依はようやく気づく。

この痛みは減らない。むしろ、少しずつ強くなっている。


 理由は分からない。

名前も、形もない。


 それでも理依は目を逸らさない。


 夜道を歩き、信号待ちで距離が縮まる。手が触れ、絡む。


 強くない。

でも、離れない。


 その温度に理依ははっきりと思う。


 ……それでも。

 私はこの人と生きたい。


 胸が痛む。

それでも手を離したいとは思わない。


 仕事の充実も、恒一との時間も、どちらも本物だ。だからこそ棘は消えないのかもしれない。


 窓の外、働く人の灯りが点々と浮かぶ。


 ……私は。

 ちゃんと生活を選んでる。


 私の棘は形を変えたまま、まだそこにある。

幸福が積み重なるほど存在を主張する。


 それでも理依は前を向く。


 怖さではない。

後悔でもない。


 誰かと生きることを本気で望んでいる証として、痛みごと抱える。


 ……次は。

 同じ家に、帰る。


 その未来を思い描きながら、理依は息を整える。

痛みがあっても、望みは消えない。


 人生は大きな転機だけで進まない。

こうして幸福と違和感を同時に抱えながら、少しずつ重なっていく。


 それが理依が選んだ、それでもなお進みたい人生だった。

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