第四十二話 届かないはずの報告
約束したわけじゃなかった。
ただ連絡を取り合うようになっただけだ。
最初は事務的なやり取りだけだった。必要な確認、最低限の報告。それが終われば自然に終わる関係だと思っていた。
けれど、電話は切れなかった。いつしかそれは習慣のように定期的な連絡に変わっていった。
颯馬の両親とは、時々電話で話をする関係になっていた。
体調はどうか。ちゃんと食べているか。季節の変わり目だから、無理をするな。
決まった内容。決まった言葉。
それなのに声を聞くたび、理依の胸の奥はわずかに緩んだ。
血の繋がりはもうない。
名前も違う。
彼らにとって、理依はもう「颯馬」ではない。
過去に何があったのかを彼らは知らない。
それでも切れなかった。
その理由を理依は考えないようにしていた。
切りたくなかった。それだけだった。
その日、理依は颯馬の両親に家に招待されていた。最寄駅に着いた報告のためにスマホで連絡を取る。
かつての両親との会話を思い出す。ほんの少しだけ迷ってから、確かめるように話した。
「……今度。紹介したい人がいるんです」
スマホの向こうで、空気が変わった気配があったのはよく覚えている。
『そうなの?』
かつての母の声は驚きよりも先に柔らかさを帯びていた。問いただす気配はなく、ただ耳を傾けている。
「はい。その……その人と一緒にお邪魔しても、いいですか?」
短い沈黙。
『もちろんよ。よかったわね』
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
……よかった、って。
今の私に向けて言ってるんだ。
そして当日。
理依は隣に立つ恒一を見る。
恒一は少し緊張した表情でそれでも頷いた。
颯馬の実家に最寄駅から足を運ぶ。
この家を訪れるのは理依としては初めてだった。それでも駅からここまでの道は知っている。
門の前に立った瞬間、胸の奥が小さく揺れる。
見覚えがある。来たことがある。
――違う。
来たことがあるのは、理依じゃない。
門の位置。
玄関までの距離。
庭の端に置かれた植木鉢。
すべてが、懐かしい。
颯馬として何度も帰った家。
夕方、鍵を開けた音。
母に呼ばれた声。
父が新聞を畳む気配。
……ここで。
私は、生きてた。
胸の奥が、じくりと痛む。
それでも、理依は足を止めなかった。
インターホンを押す。
扉が開く。
颯馬の母は理依の顔を見るなり、ほっとしたように目を細めた。
「ああ……来てくれたのね」
他人のはずなのに、その声には帰りを待っていたような響きがあった。
玄関に並ぶ二人を見て、母は自然に視線を移す。
「その方が……?」
恒一が一歩前に出る。
「初めまして。理依さんと、お付き合いしています。黒川恒一といいます」
深く、丁寧に頭を下げる。
その誠実な所作を母はじっと見つめ、静かに頷いた。
「そう。どうぞ上がって」
拒む気配はなかった。
それは許可というより、受け入れだった。
居間に通される。
その瞬間、理依の胸が締めつけられる。
家具の配置。
窓際の椅子。
時計の音。
――覚えている。
颯馬として、この部屋で過ごした時間が、鮮明に浮かぶ。
テレビを見ながら母に小言を言われたこと。
父と交わした必要最低限の会話。
……初めて、来たんだ。
そう自分に言い聞かせなければならないことが、もう痛かった。
父も席につく。
「……来たか」
短い言葉。
それだけで、胸の奥が軋む。
会話が始まる。
大学の話。
暮らしの話。
理依は、理依として歩んできた経緯を話した。
恒一と出会い、距離を縮め、喧嘩をして、それでも戻ったこと。
それを話しながら、理依は自分でも気づかないまま確信していた。
――伝えたかったのは、これだ。
幸せだということ。
今、自分はちゃんと生きているということ。
それをかつて自分を育ててくれた人たちに。
母は何度も頷いた。
「そう……。いい顔してるわ」
その一言が胸に刺さる。
父が恒一を見る。
「……彼女を幸せにするんだぞ」
それは確認ではなかった。
条件でもなかった。
ただ、かつて息子に向けていたはずの言葉だった。
恒一は迷いなく答える。
「はい」
母が理依の手に触れる。
「何かあっても無理しないで。その時は電話しなさい。私たちは赤の他人だけど、あなたのことを娘のように思ってるんだから」
その温度は懐かしかった。
颯馬の記憶の中と、同じだった。
……赤の他人なのに。
それでも。
伝えたかった。
胸の奥が痛む。
真実を告げていない。
血も繋がっていない。
それでも「幸せだ」と言えた。
帰り際、母は言った。
「また、来なさい」
父も短く言う。
「体に気をつけろ」
その言葉があまりにも自然で、理依は一瞬返事が遅れた。
夜の道を歩く。
恒一が静かに言う。
「……大丈夫?」
理依は少し考えてから頷く。
「うん。伝えられた」
何を、とは言わない。
恒一も聞かない。
そっと手を握る。
強くない。
でも、確かな感触がある。
……颯馬。
心の中で、かつての自分の名前を呼ぶ。
あなたとして。
私は、ちゃんと。
幸せだって言えた。
胸の痛みは消えない。
けれど、それは後悔ではなかった。
理依は前を向く。
もう赤の他人でも、それでもかつての両親に今の自分を見せられた。
それで、よかった。
物語は喪失だけでは終わらない。
祝福と痛みを同時に抱えながら、未来へと進んでいく。




