第四十一話 名前を渡す日
約束の日。恒一と会った場所は理依の家だった。
玄関のチャイムが鳴る少し前から、理依は落ち着かなかった。
時計を見るたびに、針の進みが遅く感じられる。ソファに腰掛けてもすぐに立ち上がってしまい、意味もなくカーテンを整え、テーブルの位置を直す。もう十分に片付いているのに手を動かさずにはいられなかった。
……大丈夫。
恒一は、ちゃんと恒一だ。
きっと受け入れてもらえる。
心の中で繰り返す。
それは励ましというより確認に近かった。
ただ今日という日が、これまでとは違う線を越える日だという予感が胸の奥で静かに鳴っていた。
チャイムが鳴る。
「はーい」
母が立ち上がるより早く、理依は反射的に足を動かしていた。
玄関へ向かう背中が少しだけ前のめりになる。
扉の向こうに立っていた恒一はいつもより背筋が伸びていた。
肩に力が入りすぎているのが分かる。それでもその緊張を隠そうとはしていない。
「……お邪魔します」
声が、わずかに硬い。
「いらっしゃい」
理依がそう言うと、母が後ろから覗き込む。
視線は鋭くもなく、かといって油断しているわけでもない。親が初めて娘の相手を見るとき特有の静かな観察だった。
「ああ、この子が」
柔らかな声。
「恒一くん、だっけ?」
「はい」
深く、丁寧に頭を下げる。その所作に余計な演技はない。ただ、相手を尊重しようとする誠実さだけが滲んでいた。
それだけで母の表情がわずかに和らぐのを理依は感じ取る。
居間に通され、お茶が出る。
父も席につき、簡単な自己紹介が始まった。理依は二人の会話を聞きながら、なぜか自分の手のひらが少し冷えていることに気づいた。
「大学は別なんだって?」
「はい。でも、よく連絡は取っています」
言葉は慎重だが逃げはない。全て正直に答えている。
質問に答えるたび、恒一はきちんと相手の目を見ている。
その誠実な姿勢が理依は好きだ。
「喧嘩も、したことあります」
突然そう言ったのは恒一だった。
理依は一瞬、目を見開く。
そんなことまで言うとは思っていなかった。
「……でも」
恒一は続ける。
「ちゃんと話して、戻りました。理依さんのこと」
一拍置いて。
「大切にしています」
沈黙が落ちる。
その静けさは、重苦しいものではなかった。父は少し驚いた顔をしてから、ゆっくりと頷く。
「……それなら。十分だ」
母も穏やかに微笑んだ。
「喧嘩できるって、悪いことじゃないものね」
理依の胸に、じんわりと温かいものが広がる。
……よかった。
ちゃんと、届いてる。
そう思った瞬間だった。
胸の奥で、ほんの小さな痛みが走った。
え?
理由は分からない。
針で突かれたような、鈍い違和感。
何だったんだろう……?
その日は、思っていたよりもあっさりと終わった。
帰り際、母が小声で言う。
「いい人じゃない」
理依は照れたように笑った。
その笑顔に、嘘はなかった。なかったはずだ。
†
数週間後、今度は恒一の家を訪れる。
理依はあの時よりも少しだけ緊張していた。
知らない場所。知らない家族。
そして、知らない未来の気配。
……私。
どう見えるんだろう。
恒一もこんな気持ちだったのかな。
玄関で迎えてくれたのは、恒一の母だった。
「あら、理依さん?」
その声には最初から親しみがあった。
「話、聞いてるわ。ありがとうね。恒一を、外に連れ出してくれて」
理依は首を振る。
「……一緒に歩いただけです」
その言葉に、母は少し目を細める。
「それが、一番難しいのよ」
居間には恒一の父もいた。
寡黙だが視線は柔らかい。
「大学は、どうだ」
「楽しいです。人と関わることを勉強しています」
父は短く頷く。
「……恒一に、合ってる」
その一言に恒一がわずかに目を見開く。
理依の胸にも温かさが広がる。
母が言う。
「理依さん。無理しなくていいのよ。恒一は、やっと自分の足で立ち始めたんだから」
理依ははっきりと答えた。
「はい。だからこそ。並んで歩けたらいいな、って思ってます」
その言葉は本心だった。
疑いようのない、今の気持ちだった。
恒一の母はしばらく理依を見つめ、それからゆっくり微笑んだ。
「……いい子ね」
帰り道、恒一が言う。
「……認めてもらえた、かな」
理依は頷く。
「うん。ちゃんと」
二人は手を繋ぐ。
強くない。けれど、確かに離れない。
その瞬間、また胸の奥が痛んだ。
……私は。
幸せなはずなのに。
理由の分からない痛み。
まるで心のどこかに、小さな棘が残っているような感覚。
本当だったら。
ここに――。
そんな考えが形を成そうとして、消えていく。
幸せの中に痛みだけが混じる。
……大丈夫。
私は、ちゃんと生きてる。
そう思おうとするたび、棘は静かに存在を主張する。
それでも理依は前を向く。
気づかないまま選び続ける。
両家に認められたその日、理依は確かに感じていた。
ここが戻ってきていい場所だということ。
そしてこれから作っていく場所だということ。
物語はもう後戻りしない。
それでも誰にも見えない痛みを抱えたまま優しく、前へ進んでいった。




