第四十話 帰る場所が増えていく
再会の余韻はすぐには消えなかった。
改札の前で手を振り合い人波に紛れて恒一の姿が見えなくなった後も、理依の胸の奥には確かな温度が残り続けていた。指を絡めたときの感触ではない。声でも、表情でもない。ただ、確かにそこにあった存在の重さが、じんわりと沈殿している。
……戻れるって。
こんなに安心するんだ。
改札を抜け、ホームへ向かう足取りはどこか現実離れしていた。電車に乗り込み、座席に身を預けるとようやく息を吐く。窓の外では夏の夕方の街並みがゆっくりと後ろへ流れていった。オレンジ色に染まり始めた空と、仕事帰りの人々の横顔。どれもが日常の風景なのに今日は少しだけ柔らかく見える。
電車の揺れに身を任せているとスマートフォンが震えた。
〈今日は、ありがとう〉
〈会えてよかった〉
画面に浮かぶ文字を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねる。間を置かずもう一通。
〈……ちゃんと、好きだって思った〉
理依はその言葉を何度か目でなぞり、ゆっくりと息を吐いた。照れや戸惑いよりも静かな納得があった。
〈私も〉
〈また、会おう〉
それだけで十分だった。長い説明も、重い約束もいらない。互いに戻る場所があることをもう疑っていない。
その足で理依は実家に戻った。
玄関の扉を開けると、懐かしい匂いが鼻をくすぐる。洗剤と、味噌汁と、少しだけ古い木の匂いが混じった変わらない空気。
「おかえり」
キッチンから母の声がして、続いて父が顔を出す。
「久しぶりだな」
「ただいま」
そのやり取りだけで肩の力が抜けた。大学での生活も、友人との時間も大切だ。けれど、ここに戻ると自分がどこから来たのかを思い出せる。今の私が始まった場所。
荷物を置き、居間に腰を下ろす。テレビではいつものニュース番組が流れている。父がリモコンを置き、母がお茶を出していた。その一つ一つの動作が理依の中に安心を積み重ねていく。
「大学、どう?」
「忙しいけど楽しい」
嘘ではなかった。すべてが順調というわけではない。でも、自分で選んだ場所で、自分なりに歩いている実感がある。それは楽しい毎日に他ならない。
夕食を囲み、何気ない話を交わす。近所の話題や親戚の近況など。特別なことは何もない。それでも理依は気づく。自分はこの輪の中から、排除されていない。ちゃんと席がある。
そのことが何より嬉しかった。
ここに帰れる場所があるんだ。
食後、片付けを終えた後、母がふと口を開く。
「この前、電話のとき。悩んでたでしょ。仲直りできた?」
理依は柔らかい笑みを浮かべ、それから正直に答えた。
「仲直りした」
母は少し笑い、頷く。
「それならよかった。喧嘩できる相手って。ちゃんと大事な人だからね」
その言葉は、説教でも助言でもなかった。ただ経験から滲み出た事実のように、静かに胸へ落ちてくる。
夜、布団に入る。見慣れた天井を見つめながら理依は考える。
……私は。
いくつ、居場所を持てるんだろう。
大学。友達。実家。そして、恒一。どれか一つにしがみつかなくてもいい。全部を完璧に抱え込まなくてもいい。ただ、少しずつ、大事にできればそれでいい。
颯馬の思考が、静かに整理する。
――分散された関係性は、健全。
――独りにならない。
理依の感性が自然に頷く。
……孤独じゃない。
独りでもない。
それが今の私。
翌日、恒一から連絡が来た。
〈来週、またそっち戻るんだけど〉
〈少し会える?〉
理依は、迷わず返す。
〈うん〉
〈実家にいるよ〉
しばらくして、また通知。
〈じゃあ〉
〈挨拶、行ってもいい?〉
画面を見て、理依は少しだけ目を見開く。
……挨拶。
家族に、か。
胸がざわつく。でも逃げない。これは怖さよりも前へ進むための緊張だ。
〈うん〉
〈両親、喜ぶと思う〉
送信すると、すぐに返信。
〈緊張する〉
理依は、思わず笑った。
〈大丈夫〉
〈ちゃんと、分かってもらえる〉
その言葉を打ちながら、理依は実感する。
……私は。
誰かを迎え入れる側にもなったんだ。
居場所は増えるたびに、自分を縛るものではなく、輪郭をはっきりさせてくれる。
恋人として。
娘として。
大学生として。
そして、颯馬の人生の延長を生きながら、それでも理依として。
夏はまだ始まったばかりだった。
次に会う日はきっと、また新しい一歩になる。
理依は窓を開け、夜の風を吸い込む。涼しさの中に昼の熱が少しだけ残っている。
……大丈夫。
私はちゃんと、進んでる。
その確信は、静かで、揺るがなかった。物語は大きな音を立てることなく、しかし確かに次の季節へと向かっている。
居場所があるって素敵ですね。




