第四話 まだ名前のない違和感
朝の光は、いつもと同じ角度でカーテンの隙間から差し込んでいた。
部屋の中に細い帯を描き、壁を淡く照らしている。その光景を見た瞬間、中村理依は「今日も同じだ」と思った。昨日とも、一昨日とも変わらない朝。そう思えることに、理由の分からない安堵があった。
理依は目を開けて、しばらく天井を見つめたまま動かなかった。
白い天井。小さな染み。見慣れた模様。視線を動かさなくても、部屋の配置が頭に浮かぶ。自分の部屋、自分の朝、自分の一日。そうやって、いつも通りを確認してから起き上がるのが習慣だった。
けれど、その「起き上がる」までの間に、ほんのわずかな引っかかりがあった。
目覚めの感覚が、ほんの少しだけ変だった。
眠気が残っているわけではない。体が重いわけでも、頭がぼんやりしているわけでもない。ただ、起き上がろうとした瞬間、頭の中で「起きる」という合図が出てから、体がそれに応えるまでに、一拍だけ間が空く。
遅れ、と言うほど大きなものではない。
誰かに言われなければ、きっと気づかない。自分でも、気にしなければ流してしまえる程度のものだ。
「……気のせいかな」
小さく呟いて、理依は布団から出た。
声はいつも通りだった。自分の声だ、とちゃんと分かる。それを確認するように、もう一度軽く咳払いをしてみる。違和感はない。
床に足をつけた瞬間、ひやりとした冷たさが伝わる。
その冷たさが、普段よりも少しだけ強い気がした。冬が近づいているからだろうか。そう考えて、深く考えるのをやめる。理由がありそうな違和感は、理由をつければ収まる。
洗面所へ行き、顔を洗う。水の感触が、やけに輪郭を持っている。指と指の間を流れる感覚、頬に当たる冷たさ。いつも感じているはずなのに、今朝は一つ一つがはっきりと伝わってくる。
鏡を見る。そこに映っているのは、見慣れた自分だった。寝癖のついた髪、寝起きで少し腫れぼったい目。寝起き特有のどこか頼りない表情。中学生らしい、どこにでもいそうな女の子。
異変は、何も見当たらない。
鏡の中の自分と、鏡の外の自分が、きちんと一致している。
そう確認できて、理依は歯ブラシを手に取った。
学校へ向かう道も、昨日までと同じだった。
角を曲がり、信号を渡り、決まった場所で友達と合流する。制服の感触、鞄の重さ、朝の空気。すべてが、慣れ親しんだものだ。
友達と並んで歩きながら、昨日のテレビ番組の話をする。
誰が面白かったとか、あのシーンがどうだったとか、そんな他愛のない会話。テストの愚痴を言い合って、ため息をついて、すぐに笑う。
笑い声は自然に出た。無理に作ったものではない。体も、言葉も、ちゃんと自分のものだと感じられる。
けれど。
会話の途中、ふとした瞬間に、理依は自分の言葉を「外から」聞いているような気分になることがあった。
口は動いている。声も出ている。けれど、それが自分の中から生まれたという実感が、ほんの一瞬だけ遅れて追いかけてくる。
まるで、少し離れた場所から、自分を眺めているような感覚。
すぐに元に戻る。気づいた時には、もう次の話題に移っている。
「理依、どうしたの?」
名前を呼ばれて、はっとする。
心臓が一拍強く打った。
「え? 何でもないよ」
咄嗟に笑って返す。
嘘ではない。本当に、何でもない。ただ、説明できない。説明しようとすると、言葉が空回りする。
授業中、ノートを取る手が一瞬止まる。
黒板に書かれた数式を見て、なぜか「簡単だな」と思ってしまった。
次の瞬間、理依は自分で驚く。
そんな感想を持つほど、得意な単元じゃない。苦手でもないけれど、特別な自信があるわけでもない。
今の、私?
答えが、自然に頭に浮かんでいた。
考える前に、形ができている。理由は分からない。ただ、そうなると分かっていたような感覚。
消しゴムで軽く線を消しながら、理依は首を傾げる。
たまたま、だ。そう思うことにする。たまたま、今日は調子がいいだけ。
放課後。友達と並んで帰る道で、夕焼けがやけに鮮やかに見えた。
空の色が、はっきりと層になっている。オレンジと紫の境目がくっきりしていて、遠くの雲の形までよく分かる。風の冷たさ、人の気配、足音。それらが、いつもより少し近い。
感覚が鋭くなった、というより。重なった、という方が近かった。
自分の感じ方に、もう一つの層が重なっている。
それが何なのかは分からない。ただ、増えたわけでも、何かが欠けたわけでもない。不思議な均衡が、そこにあった。
理由は分からない。ただ、胸の奥に、説明のつかない静けさがある。怖くはない。でも、完全に安心できるものでもない。何かを待っているような、落ち着かなさ。
家に帰ってからも、その感覚は続いた。テレビを見ながら、母親の足音を無意識に数えている自分に気づく。廊下の軋み方、歩幅、リズム。それだけで、次に何が起こるかが分かってしまう。
ドアが開く前に、声が聞こえる気がした。
「理依?」
呼ばれるより先に、分かってしまったことが、少しだけ気味が悪い。
「……ううん、なんでも」
首を振って、話題を逸らす。母親は気に留めた様子もなく、いつも通りに動いている。その普通さが、逆に安心できた。
夜、布団に入って目を閉じる。部屋は暗く、静かだ。それなのに、胸の奥が微かに温かい。湯たんぽのような熱ではない。もっと曖昧で、形のない温度。
誰かが、すぐ近くにいるような錯覚。
もちろん、部屋には自分一人だ。それは分かっている。分かっているはずなのに、その確信が、完全には定着しない。
「……疲れてるのかな」
そう思いながら、理依は眠りに落ちる。
意識が沈んでいく途中でもその温度は消えなかった。
意識の底で、何かが、静かに呼吸している。
まだ名前はない。
まだ輪郭もない。
ただ、確かにそこにある違和感だけが、何事もなかったように、日常へと溶け込み始めていた。




