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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第三十八話 戻る場所を知っている

 呼び出し音が三回鳴る。


 その間、理依は息をすることさえ忘れていた。

胸の奥で心臓が一定の速さを保とうとしているのが分かる。

速くなりすぎないように、遅くなりすぎないように、まるで自分自身をなだめるみたいに。


「……もしもし」


 恒一の声は、少し掠れていた。

眠っていたわけじゃない。目を閉じたまま天井を見つめて、いろんな考えを行ったり来たりさせていた声だ。ずっと恒一を見てきたからわかる。


 その声を聞いただけで理依の胸の奥が、きゅっと縮んだ。


「……理依です」


 自分の名前を名乗るだけなのに、声が少し震える。

それでもはっきり言えた。


 一拍。


「……うん」


 短い返事。

でも、拒まれていない。

まだ話せる。


 それだけで胸に溜まっていた緊張が少しだけ抜ける。


 理依はゆっくり息を吸った。

肺の奥まで空気を入れて、そのまま吐く。


 ……言い訳しない。

 正しさで固めない。

 ただ、気持ちを置いていく。


「この前は……ごめん」


 言葉は綺麗なものでなくていい。順序も整ってなくていい。

ただ、逃げないで話し続ける。


「忙しさを理由にして。ちゃんと、恒一と向き合ってなかった」


 電話の向こうで音はしない。

沈黙がある。


 その沈黙は以前のように冷たくはなかったけれど、簡単には越えられない重さがあった。

夜の空気みたいに、静かで、深い。


「……俺も」


 恒一が低く言う。


「言い方、良くなかった。寂しいって、そのまま言えばよかったのに」


 理依は目を閉じる。

まぶたの裏にこの数日の出来事が浮かぶ。


 すれ違った言葉。飲み込んだ感情。

相手を想っているはずなのに、傷つけてしまった瞬間が脳裏を過る毎日。


 ……同じだ。

 どっちも、怖かったんだ。


「……怖かった」


 恒一の声がほんの少し揺れる。


「理依の世界が広がって、それが嬉しいのに。自分が、そこにいられなくなる気がして」


 その言葉が理依の胸にはっきりと届く。


 怒りでも責めでもない。

ただの、不安だった。


「……いられなくなるなんて――」


 理依は間を置かずに言った。ちゃんと気持ちを込めて。


「——思ったことない」


 それは今の理依の正直な言葉だった。


「恒一は」


 名前を呼ぶ。

三年間で何度も呼んできた名前。

不安なときも楽しいときも隣にあった名前。


「私が、戻ってくる場所だよ」


 電話の向こうで、小さく息を呑む音がした。

その反応がちゃんと届いた証拠みたいで、胸が少し熱くなる。


「……俺も」


 恒一は少し間を置いてから言う。


「理依が、帰ってくる場所でいたい。縋りたいわけじゃない。守られたいだけでもない。ちゃんと、自分で立ったまま。それでも、必要だって思える存在でいたい」


 その言葉に、理依の目がじんわりと熱くなる。


 ……そうだ。

 それだ。


 誰かに寄りかかるためじゃない。

誰かを支配するためでもない。


 自分の足で立ったまま、それでも「一緒にいたい」と思えること。


「……うん」


 理依は小さく笑う。


「それがいい。私も、必要だからそばにいたい。弱いからじゃなくて。一緒にいるほうが、ちゃんと自分でいられるから」


 沈黙。


 でも今度の沈黙は何かを遮るものじゃなかった。

二人の言葉が同じ場所に落ち着くのを待つ時間。


「……喧嘩したけど」


 理依が言う。


「離れたいって思ったことは、なかった」


「……俺も」


 恒一の声に、今度ははっきりと笑いが混じる。


「正直。失うんじゃないかって、ずっと考えてた。でもこうして話せて、まだ、ここにいるって分かった」


 その言葉を聞いた瞬間、理依の胸の奥に温かいものが広がる。

不安が消えたわけじゃない。未来が約束されたわけでもない。


 でも今ここで、互いを選び直せた。


 ……大切なんだ。

 こんなふうに、怖くなるくらい。


 それは依存じゃない。

相手がいなければ壊れる関係じゃない。


 それでも失いたくないと思える関係。


 理依はゆっくり言う。


「私。完璧じゃない。忙しくなると、視野が狭くなるし。言葉もきつくなる。それでも……ちゃんと戻ってくるから。逃げないから」


 恒一もはっきり答える。


「俺も、我慢しすぎない。勝手に一人で抱え込まない。寂しいときは寂しいって言う」


 沈黙。


 でも、その沈黙はもう怖くなかった。


「……なあ」


 恒一が言う。


「今度、会おう。ちゃんと、顔見て。久しぶりに」


 理依はスマートフォンを耳に当てたまま静かに微笑む。


「うん。会おう」


 電話を切ったあと、理依はベッドに座ったまま胸に手を当てた。


 心臓は落ち着いた速さで打っている。さっきまでの不安が嘘みたいに静かだ。


 颯馬の思考がいつものように整理を始める。


 ――関係は崩壊していない。

 ――対等性は保たれている。


 でも、その分析よりも先に、理依の感性がはっきりと分かっている。


 喧嘩した。

 ……それでも。

 大切な人。


 必要なのは、縛ることでも、離れることでもない。

互いが自分の場所を持ったまま、それでも選び合うこと。


 喧嘩は二人を遠ざけるものじゃなかった。

どれだけ大切に思っているかを確かめるための痛みだった。


 理依は窓の外を見る。


 夜は静かだ。

街灯の光がやわらかく道を照らしている。


 独りじゃない。

戻る場所がある。


 そして自分もまた誰かの戻る場所でいられる。


 その事実が、胸の奥で静かに光っていた。


 明日はきっと今日よりも少しだけ優しくなれる。


 そう思いながら、理依はゆっくり目を閉じた。

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