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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第三十六話 言葉が尖る夜

 きっかけは本当に些細なことだった。


 雨は降っていない。

ただ雲が低く垂れ込めて、夕方になっても部屋に光が届かない日だった。


 カーテンを少し開けても、外の景色は灰色のままで街灯だけが早めに点き始めている。

一日中暗いと心も重くなる。この景色のように自分の心もどんよりとしていた。


 机の上にはゼミの資料。

画面の中にはまだまとめきれていない文章。


 理依はキーボードに指を置いたまま、同じ行を何度も読み返していた。


 集中できていないわけじゃない。

むしろ集中しすぎて、周りが見えなくなっている。それでも思考が空回りして文字を読めてもその言葉の意味が脳に入ってこない。


 なんで……。


 そのときスマートフォンが震えた。


<今日、少し話せる?>


 恒一からのメッセージ。


 胸の奥がわずかに揺れる。

嫌じゃない。むしろ、嬉しい。


 でも現実は目の前にある。


 時計を見る。

ゼミの準備はまだ途中で、このあとオンラインの打ち合わせも入っている。


 ……今は、無理。


 そう判断するのに時間はかからなかった。


〈ごめん、今日はゼミの準備が詰まってて〉

〈また今度でもいい?〉


 送信。


 既読はすぐについた。

その早さがなぜか胸に引っかかる。


 部屋の空気は変わらない。

時計は淡々と秒を刻み、外では車が走り去る。


 それなのに自分だけが一歩、ずれた気がした。


 夜。

資料を閉じて椅子から立ち上がった頃、スマートフォンが再び震える。


〈そっか〉


 それだけ。


 短い。

あまりにも、余白が多い。


 ……冷たくは、ない。


 そう思おうとする。

でも、何かを置き去りにされたような感覚が残る。


〈明日なら空いてる〉

〈時間、合わせられると思う〉


 送信。


 翌日、暗く落ち込んだ心を抱えたままスマートフォンを握る。

そして着信音。約束した時間通りに届いた。


 部屋の静けさを切り裂くような音に、心臓が一度、強く跳ねる。

そして画面をタップ。


「……もしもし」


「うん」


 恒一の声。

聞き慣れているはずなのに、今日は少し遠い。


 最初は他愛ない話だった。

授業のこと。

天気のこと。

どうでもいいこと。


 でも、言葉の間に目に見えない段差がある。


 気付けば沈黙が落ちていた。

その沈黙は夜の湿った空気みたいに肌にまとわりつく。


「……なあ」


 恒一が言った。


「最近さ」


 声が、少し低い。


「理依、ずっと忙しそうだよな」


 その一言で胸の奥が、きゅっと縮む。


「うん」


「大学、楽しいんだろ」


「……楽しいよ」


 それは嘘じゃない。

精いっぱい、選んで、歩いてきた結果だ。


「そうだよな」


 恒一が小さく息を吐く。


「それなら、いいんだ」


 その「いいんだ」が何かを閉じる音に聞こえた。


「……何が?」


 理依は思わず聞き返す。


「いや」


 一拍。


「俺さ、最近。……連絡するとき、ちょっと考えるようになった」


 胸の奥がざわつく。


「忙しいのに、邪魔したら悪いかなって」


 その言葉が理依の中でゆっくり形を変える。


 ……違う。

 邪魔なんかじゃない。


「……そんなふうに思わせてたなら、ごめん」


 本心だった。

でもその次の言葉が止まらなかった。


「でも」


 声が、少しだけ強くなる。


「私、ただ前に進んでるだけだよ。恒一の隣に立とうとしてるだけなのに」


 電話の向こうで、息を吸う音。


「……分かってる」


 恒一の声も、硬い。


「理依が悪いって言ってるわけじゃない。ただ――」


 一拍。


「俺が、置いていかれてる気がしただけ」


 その瞬間、胸の奥で何かがはっきり折れた。


 ……置いていかれてる。


 その言葉が、頭の中で何度も反響する。


 ……違う。

 置いていった覚えなんて、ない。


「……それって」


 理依の声が、震える。


「私が、勝手に先に行ったってこと?」


 沈黙。


 その沈黙が答えに聞こえてしまう。


「……そういう意味じゃない」


 恒一が言う。


「でも、そう聞こえた」


 その一言で理依の中に怒りが立ち上がる。わかってるこの怒りは自分勝手なもの。

隠さないといけない。押し殺さないといけない。

それでも今の理依には抑えられなかった。


 その怒りは恒一に向けたものだけじゃない。


 現実に向けたもの。

どうしようもない時間に向けたもの。

そしてこんな感情を制御できない自分自身に対してのもの。


「……じゃあ、どうすればよかったの?」


 自分の声が、思ったより鋭くなる。


「立ち止まればよかった? 頑張るの、やめればよかった? 精いっぱい生きてるのに。それって、否定されることなの?」


 言葉が刃みたいに空気を切る。


「そんなこと、言ってない」


 恒一の声が低くなる。


「……理依。今の言い方、きつい」


 その一言で、理依の中の何かが弾けた。


「……きついのは、こっちだよ。私は、ただ……一緒に立ちたかっただけなのに。置いていったつもりなんてないのに」


 言葉は相手に向かって飛んだはずなのに、自分の胸にも突き刺さる。


 本当にそうだっただろうか。

 自分は恒一に寄り添っていただろうか。

 自分のことばかりを優先してしまっていなかっただろうか。


 沈黙。


 その沈黙は、二人の間にはっきり距離を作る。


「……ごめん」


 恒一の謝罪は遅れて届く。

そして彼は続けた。


「今日は、ここまでにしよう。落ち着いたら、また話そう」


 通話が切れる。

部屋に静寂が落ちた。


 スマートフォンを握ったまま理依は動けなかった。


 窓の外では雲がさらに厚くなっている。


 ……今の私。


 胸の奥に、鈍い痛み。


 颯馬の記憶がゆっくり浮かび上がる。


 正しさで相手を押し切る癖。

前に進むことで、誰かを置いてしまった過去。


 ……嫌だ。

 それだけは、嫌だった。


 布団に倒れ込む。


 天井を見つめながら息を整える。


 涙は出ない。

でも、胸が苦しい。


 ……私は。

 恒一の隣に、立っていたいだけ。

 勝ちたかったわけじゃない。

 否定されたくなかった。


 今は確かに隣に立てていない。

その現実に気づいてしまったことが、何より悔しかった。


 それでも。


 この気持ちだけは嘘じゃない。


 理依は目を閉じる。


 ……明日。

 ちゃんと、伝えよう。


 置いていきたいわけじゃない。

前に行きたいだけでもない。


 ただ、一緒に立ちたいだけだと。


 この夜は、二人の間に生まれた距離をはっきりさせたものだった。

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