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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第三十五話 届かない時間

 昨日はすみません(汗

ちょっと体調を崩していました。なので昨日の分も含めて二話連続でお楽しみください。

 忙しさは音を立てずに積み上がった。


 朝、カーテン越しの光で目が覚める。

まだ完全に目が覚めきらないまま天井を見上げると、今日一日の予定が勝手に頭の中で並び始める。


 講義、打ち合わせ、バイト。

その合間に図書館で勉強。

帰宅してからレポートとまとめ、自炊のための買い物や料理、洗濯、掃除。

ある時はそこに友人たちと外で遊びに行くこともある。


 一つひとつは重くない。

でも、数が多い。


 ベッドから起き上がり、窓を開けると街の音がすでに動き始めている。

大学のあるこの街は朝から忙しい。


 理依のスケジュール帳はいつの間にか余白がほとんどなくなっていた。


 レポートの締切は重なり、グループワークの打ち合わせは「全員の都合」をすり合わせた結果で埋まり、昼の復習が夕方や夜にずれ込むことも多い。


 それでも理依は疲れきってはいなかった。


 充実してる。


 そう思える日々だったから。


 自分で選び、自分で決め、自分で動いている。

高校の頃にはなかった感覚。その一つ一つが懐かしくも、新しい体験として経験出来ている。


「あとで返そう」


 スマートフォンの画面を閉じるとき、その言葉が考える前に浮かぶようになった。


 後回しにしているつもりはない。

ただ、今やるべきことが目の前にあるだけ。その後にしっかりメッセージを返せばいい。

締め切りが近いものを優先するのは当たり前だ。


 ……今は、これを終わらせないと。


 颯馬の思考が静かに背中を押す。


 ――期限がある。

 ――責任がある。

 ――集中を切らすな。


 夜、帰宅してシャワーを浴び、ベッドに倒れ込む頃には頭の中は言葉と数字でいっぱいになる。

身体が疲れていなくても頭が疲労を訴えている。


 スマートフォンがまた枕元で光った。

見る前から恒一からだと分かる。だいたいいつもこの時間だから。


 でも、今は返せない、という感覚が先に立つ。

疲れすぎていて返事を打つ気力もない。


 そして、翌朝。

通学途中の電車の中でようやく画面を開く。


〈今日、電話できる?〉


 送信時刻は、昨日の夜。ちょうど理依が寝てしまった時間。


 胸の奥がほんの少しだけ沈む。

悪いことをしてしまった気がして胸が痛い。


〈ごめん。寝ちゃってた〉


 もっと話したい。もう少しだけ。

そう思うのに、言葉を考える間もなく電車は駅に着く。


 講義に出て、ノートを取り、昼休みに友達と話して。


 その間にも、こちらから送ったメッセージに恒一からの返事は来ていない。


 ……忙しいのかな。


 そう思った瞬間、自分も同じだと気づく。


 夕方になって、ようやくメッセージが来る。


〈昨日はレポートまとめてたからいいよ〉

〈今日はどう?〉


 画面を閉じてから、少しだけ落ち着かない。この疲れの中で楽しく話せるか分からない。

それでも話したい気持ちは本当で……。


 返事は夜になってから返した。


〈今日はサークルの集まりと課題で、遅くなる〉


〈ごめん。俺も今サークルの予定が入った〉


 短い文面。

丁寧ではあるけれど、どこか余裕がない。


 それを見て、理依は小さく息を吐く。


 ……そっか。

 恒一も、忙しいんだ。


 大学に入ってから恒一の生活も変わっている。


 サークル。

 授業。

 新しい人間関係。


 前に比べて、「今日はこれしてきた」という話が増えた。

それは良い変化だと思っている。


 思っている、はずだった。


 ……じゃあ、また今度。


 その言葉を心の中で繰り返す。


 気づけば、電話は予定が合わず「また今度」が、当たり前になっていた。


 休日も同じだ。


 理依は友達との約束や課題で埋まり、恒一もサークルや用事が入る。


 どちらかが空いていても、

もう一方が忙しい。


「今週は無理そう」


「来週、どうかな」


 そんなやり取りが増える。


 不思議なことに、どちらも不満は口にしない。

責める理由が見つからないからだ。どちらも避けていない。むしろもっと話したいと思っている。

それをなんとなく互いに理解してしまっているから。


 理依は忙しい。恒一も忙しい。


 それぞれが自分の場所を広げているだけ。


 ……。


 ある夜。

レポートを書き終えて、椅子にもたれかかる。


 部屋は静かで時計の針の音がやけに大きく聞こえる。


 ふと、思考が止まる。


 ……最近。

 ちゃんと話してない。


 その事実がはじめて言葉として浮かぶ。

胸の奥で小さな棘がかすかに動く。


 ……私だけ、忙しいんじゃない。

 恒一も同じだ。


 だから、どちらが悪いわけでもない。


 でも。

 ……それでも。

 このままで、いいのかな。

 ちゃんと話さないのは、恒一に不誠実かな。


 颯馬の思考がすぐに答えを出そうとする。


 ――今は成長の時期だ。

 ――環境が変われば、多少のズレは生じる。

 ――一時的なものだ。


 理依は目を閉じる。


 その理屈は、正しい。

でも胸の奥のざわつきは消えない。


 恒一のメッセージを思い出す。


 短くなった文章。

「大丈夫だよ」が増えたこと。

感情を、あまり乗せてこなくなったこと。


 ……恒一も。

 気づいてる、よね。


 直接そう言われたわけじゃない。

でも何も言わない選び方が同じ匂いをしている。


 互いに相手の生活を邪魔したくなくて、踏み込まない。

それが思いやりなのか、距離なのか。まだ判断できない。


 会えない距離よりも噛み合わない時間のほうが関係を揺らす。


 それを二人とも薄々分かっている。


 でも「問題」と呼ぶほど、はっきりした形ではないから。


 理依はベッドに横になる。

天井を見つめながら、今日の一日を思い返す。


 忙しくて、楽しくて、確かに前に進んでいる。

それでも胸の奥に残るこの感覚に、まだ名前をつけられない。


 恒一もきっとどこかで同じように考えている。


 そう思えることが、少しだけ救いで、同時に少しだけ怖かった。


 このまま関係が希薄になっていつか消えてしまうのではないか、と。


 静かな不安は、まだ言葉にならないまま、二人の間で確かに育ち始めていた。


 そして理依はその存在をもう見なかったことにはできなくなっていた。

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