第三十四話 離れた場所で、同じ時間を生きる
大学生活は想像していたよりも忙しかった。
朝、目覚ましが鳴る前に目が覚める日もあれば、カーテン越しの光に急かされて起きる日もある。
高校の頃のように決まったリズムはない。一日の形はその日の自分が決める。
講義の種類は多い。時間割は自分で組み、誰も「次はこれだよ」と教えてくれない。
最初は少しだけ心細かった。一度受動的な学びに慣れてしまうと自発的に動くことに不安を覚える。
でもそれはすぐに別の感覚に変わる。
……任されてる。
なら、しっかり応えるべきだ。
理依はその自由に戸惑いながらも確かな手応えを感じていた。
朝のキャンパスは、静かだ。
通り抜ける風がまだ冷たい。芝生の上には夜露の名残が光っている。
そしてそこを歩み、講義室に赴く時間は期待で満ちている。
人と関わる学部。
討論の多い授業。
グループワーク。
円になって座り、初対面の人たちと意見を交わす。
最初のうちは名前を呼ばれるだけで少し緊張した。
でも言葉を重ねるうちに、その緊張は薄れていく。
颯馬の思考が、静かに場を整理する。
――議論の構造。
――立場の違い。
――論点のずれ。
理依の感性がそこに言葉を添える。
「それ、どういう意味を込めたの?」
「今の言い方だと誤解されやすいかも」
「こう言い換えたら伝わるかな」
誰かを論破するためじゃない。
誰かを黙らせるためでもない。
同じ場所に立つために言葉を並べ直す。人と寄り添う言葉を学んでいく。
気づけば自然と場を回す役割を担っていた。
「理依って、落ち着いてるよね」
「話しやすいし、聞いてくれる感じする」
そんな言葉を向けられるたび、胸の奥で小さく何かがほどける。
……昔の、颯馬だったころの私なら。
きっと、黙ってた。
知識はあっても、人の輪の中に立つことはできなかった。
けれど今は違う。
間に立つことが怖くない。
むしろ、心地いい。
昼休みは学食で友達と並ぶことが常になった。
トレイを持って空いている席を探すのも宝探しみたいで楽しい。
「今日のやつ、当たりじゃない?」
「そっちもおいしそう」
そんな何気ない会話がちゃんと日常になっている。
午後に図書館でレポートを書く日もある。
静かな空間でキーボードを叩きながら、ふと自分が「大学生」になったことを実感する。
夜、アパートの部屋。
一人暮らしの部屋は、最初よりも少しだけ生活の匂いがしてきた。
机の上のノート。
床に置いたバッグ。
カーテンの色。
ここは今の理依の場所だ。
通知音が鳴った。スマートフォンを手に取る。
〈今日、どんな一日だった?〉
恒一からのメッセージ。
画面を見るだけで、胸がふっと温かくなる。
理依はすぐに返信する。
〈グループワーク多かった〉
〈疲れたけど、楽しかった〉
返事が来る。
〈それなら、よかった〉
〈理依、ちゃんと楽しんでる感じする〉
……見てる。
ちゃんと。
〈恒一は?〉
〈今日はサークルの集まり〉
〈最初は緊張したけど〉
〈なんか、悪くなかった〉
その言葉に理依は小さく笑う。
……それぞれ、居場所を見つけてる。
同じ場所じゃない。
同じ生活でもない。
それでも互いの世界が広がっていくのをちゃんと喜べている。
電話をする夜もある。
画面はつなげないまま、声だけで話す。
「今日さ、変な夢見た」
「どんな?」
「キャンパスで迷子になって、恒一探してた」
「それ、現実でもありそうだな」
笑い声が、スピーカー越しに柔らかく響く。
「でもさ」
少し間があって。
「離れてても、ちゃんと近い気がする」
理依は布団の上で天井を見つめながら答える。
「うん」
「不思議だけど」
「うれしい」
言葉は短い。
でも、甘さは確かだった。
週末。
理依は大学の友達とカフェに入る。
木のテーブル。
焼き菓子の匂い。
午後のやわらかい光。
恋の話もする。
将来の話もする。
バイトの話も、授業の愚痴も。
その輪の中で、自分が自然に笑っていることに気づく。
……ここも、私の居場所。
帰り道、夜風に吹かれながら恒一にメッセージを送る。
〈今日は友達とカフェ〉
〈楽しかった〉
少し間があって、返信。
〈それ、なんか想像できる〉
〈笑ってる顔〉
胸が、きゅっとする。
……ずるい。
〈今度、写真送る〉
〈楽しみにしてる〉
春は、あっという間に過ぎた。
新しい友達。
新しい役割。
新しい日常。
講義ノートは増え、カレンダーは埋まり、一日が短く感じる。
鏡に映る自分は、もう高校生じゃない。
服の選び方。
歩き方。
表情。
女性としての輪郭は、はっきりしてきている。
……私は、ちゃんと生きてる。
夜、窓を開けると、遠くで電車の音がする。
恒一も別の街で同じように夜を迎えている。
そう思うと距離は寂しさよりも静かな甘さを運んできた。
大学生になるということは急に大人になることじゃない。
でもそれぞれが自分の場所を見つけ、それでも手を離さないことはできる。
理依はそのことを今、確かに知っている。
離れた場所で育つ日常と、静かに深まる恋を抱えながら二人は歩み続ける。




