第三十三話 春、名前のない始まり
大学の正門は想像よりも広かった。
門柱の向こうに続く道はまっすぐではなく、ゆるやかに曲がっている。その先に何があるのか、一目では分からない。けれど、不安よりも先に風の匂いが届いた。
若い草と、少し乾いた土と、新しい建物のコンクリートが混ざった匂い。
掲示板に貼られた新入生向けの案内が風に揺れている。
オリエンテーション、履修相談、サークル説明会。文字の多さに一瞬だけ圧倒されるが、すぐに視線を逸らした。
行き交う人の多さ。高校とは比べものにならない。
スーツ姿の上級生、ラフな格好の学生、外国語が混じる会話。
誰もが、違う方向を向いて歩いている。
……始まった。
理依は少しだけ背筋を伸ばす。胸の奥に静かな緊張がある。
でも、それは怯えではなかった。
高校の制服はもうない。
朝、クローゼットの前で少しだけ悩んで選んだ服。
落ち着いた色合いで、線は柔らかい。派手さはないが、どこか軽やかだ。
歩くたび、スカートの裾が小さく揺れる。
その感覚を理依は意識する。
昔なら気にしすぎて立ち止まっていたかもしれない。
今は違う。
鏡に映る自分は、高校生だった頃よりはっきりと大人びて見えた。
顔立ちは劇的に変わったわけじゃない。
でも、目線の高さ、立ち方、肩の力の抜け方。
「守られている側」から「自分で立っている側」へ確実に移っている。
身体の線も、声の響きも、女性としての輪郭が自然に整ってきている。
……これが、今の私。
違和感はほとんどない。
迷いが完全に消えたわけでもない。
それでも「受け入れている」という感覚が確かにある。
颯馬の思考は、周囲を素早く把握している。
――建物の配置。
――人の流れ。
――移動にかかる時間。
――効率。
無意識のうちに、世界を整理する癖。
それは今も変わらない。
でも、理依の感性はその上で息をする。
……余白、あるね。
詰め込まなくていい。
全部を把握しなくてもいい。
分からないまま、歩いていい。
サークル勧誘の声が四方から飛んでくる。
「新入生? サークル見てかない?」
「アンケートだけでも!」
色とりどりのチラシ。元気すぎる声。
高校生だった頃なら、圧倒されていたかもしれない。
理依は、軽く会釈して通り過ぎる。
……焦らなくていい。
ここでは急いで何かになる必要はない。
選択肢は多い。でも、それは「縛り」じゃない。
講義室に入ると、すでに何人かが席についていた。
周囲は見知らぬ顔ばかり。
制服もないから年齢すら分からない。
席を探していると隣に座った女子が自然に声をかけてきた。
「この授業、初めて?」
「うん」
「私も。よろしくね」
名前を交換する。
学部の話を少し。出身地の話を少し。
ほんの数分。
それだけで、空気が少し柔らぐ。
……大丈夫。
ちゃんと、ここにいる。
講義が始まる。
教授の声は淡々としていて、一方的に話しているようで、どこか「聞く側の自由」を前提にしている。
高校の授業とは違う。
全員が同じ方向を向く必要はない。
メモを取る人。
画面を見る人。
ただ、じっと話を聞いている人。
……自由だ。
しかしその自由は、放っておけば孤独にもなる。
誰にも声をかけられず、誰とも関わらないまま、日々は進んでいく。それが颯馬の人生だった。
でも、理依は知っている。
孤独と独りは違う。
独りでいることは選んでその立場になれるし、独りでいない時間も選べる。
対して孤独は選べない。一度孤独になれば、そこから脱却することは言葉にするより難しいのだ。
理依は今選べる側に立っている。
それだけで安心感が出てくる。
昼休み、学食へ向かう。
大きな窓から光が差し込み、テーブルの向こうでは知らない会話がいくつも交差している。
列に並んでいるとスマートフォンが震えた。
〈入学式、どうだった?〉
恒一からのメッセージ。
画面を見た瞬間、胸の奥がほんの少しだけ柔らぐ。
〈人多かった。でも、悪くない〉
〈そっちは?〉
すぐに返信が返ってくる。
〈迷子になりかけた〉
〈でも、楽しい〉
その文字を見て、理依は小さく笑う。
少し間が空いて、またメッセージを送る。
〈それなら、よかった〉
短いやり取り。
でも、距離は感じない。付き合い始めて互いのことを前よりも伝えられるようになった気がする。
言葉を重ねるだけでも心が温かくなる。
これからは同じ場所にはいない。
大学も、生活リズムも、日常も違う。
それでも「別々の場所で立っている」という感覚が不安より先に心地よさを運んでくる。
依存ではない。
共有でもない。
共に歩く人生。
午後の講義では人と関わる学問の話が出た。
人の心がどんな仕組みで揺れるのか。関係性がどのように形作られるのか。
支援とは、何を「すること」で、何を「しないこと」なのか。
理依は自然と前のめりになる。
……ここだ。
私が、来たかった場所。
颯馬の知識が背景を即座に理解する材料になる。
理依の感性が新たな問いを立てる。
……誰かの孤独に、気づける人でいたい。
それは高校生のときより、ずっと現実的な願いになっていた。
授業が終わり、キャンパスを歩く。
夕方の光が芝生に落ちる。
学生たちの影が長く伸び、その中を自分も歩いている。
理依は立ち止まって深呼吸する。
冷たい空気が肺に入る。
……高校、終わったんだ。
あっという間だった。
迷って、揺れて、選んで。
そして今、名前のない始まりに立っている。
「新入生」という肩書きはまだ少し居心地が悪い。
でも、それもすぐに馴染むだろう。
……私は。
ここからも、選び続ける。
女性として。
理依として。
颯馬の人生の延長として。
でも、過去に縛られずに。
スマートフォンをポケットにしまい理依は歩き出す。
歩幅は、自然だ。
周囲に合わせる必要はない。
大学生になるということは、急に大人になることじゃない。
ただ、大人の女性の一員として、自分の判断に責任を持ち始めること。
誰かに決めてもらう人生から、自分で選ぶ人生へ、静かに移ること。
その一歩、理依はもう踏み出していた。
大学デビューは派手な変化じゃない。
ただ、自分で選んだ場所に自分の足で立つこと。
その足元は、まだ不安定だ。
でも、確かに地面を踏んでいる。
チクリ。
心の中でかすかな痛み。不意に感じるそれは昔の棘だろうか。
苦しくはない。少しすれば忘れてしまうような痛み。
物語はここから先も続いていく。
名前のない日常の中で、選び続ける日々として。
理依はその始まりを胸に刻みながら、胸の痛みから目を逸らしてキャンパスの奥へと歩いていった。




