第三十二話 名前を呼ぶ声
合格発表の日はあっけなかった。
朝の空は冬の名残を抱えた淡い青で、雲が高く風だけが少し冷たい。
かつて通学路だった道を歩きながら理依は無意識に歩幅を整えていた。三年間、何度も並んで歩いた速度が身体に残っている。
スマートフォンの画面に表示された番号を理依は二度、三度と見直した。
画面を拡大して、指でなぞって、見間違いではないことを確認するように見つめる。
……ある。
合格番号は確かにそこにあった。逃げも隠れもしない現実として。
胸が跳ねるより先に深く、静かな安堵が胸に広がる。
肩の力が抜けてようやく息を吐けた。
颯馬の思考が改めて確認する。
――受験校。
――合格。
――現実。
理依の感性が遅れて笑う。
……よかった。
派手な喜びじゃない。
誰かに勝った実感でもない。
ただ、選び、迷い、積み重ねてきた時間がちゃんと形になったという感覚。
家に戻ると玄関の音に気づいた母がキッチンから顔を出した。
エプロン姿のまま少し緊張した表情。
「どうだった?」
「受かった」
短い一言。
それだけで、家の空気が変わる。
母の顔がほころび、拍手が起きて、声が少しだけ潤む。
「おめでとう」
「ありがとう」
その言葉は努力をねぎらうためのものだった。
今日だけは過去への後ろめたさも浮かばない。
……これは私が選んで、進んだ道。
数日後の卒業式。
体育館は白い光に満ちていた。窓から差し込む春の光が床に反射して空間そのものが少し柔らかく見える。何度も見て来た場所なのに今日だけは特別な場所のように思えてならない。
卒業証書の紙は三年間の日々の積み重ねのように重い。
物理的な重さではない。それはこの学校での生活全てに対する労いの重さ、そして大切な時間を受け取るための重さだった。
名前を呼ばれて前に出る。
拍手の中を歩く。その一歩一歩が現実として足裏に伝わる。
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
席に戻ると周囲の友達と目が合う。
何も言わなくても分かる。
私たちはこの場所で確かに三年間を生きてきた。
式が終わると、体育館の外にはもう春の匂いで溢れていた。
校門の前で写真を撮り、先生に挨拶をして、笑って、少し泣く。
「またね」
「元気で」
その言葉がもう簡単には続かないことをみんな分かっているからこそ、胸の奥が締めつけられる。
青春はこうして区切られるのだと分かっていても寂しいものは寂しい。
人の流れが校門へ向かう頃、背後から聞き慣れた声がした。
「……理依」
呼び捨て。
三年の間に自然になった呼び方。振り返ると恒一が立っていた。
入学当初より少し背が伸びて、表情も柔らかくなっている。
それでも今は分かりやすく緊張していた。
「少し、いい?」
「うん」
理依は迷わず頷く。
二人は校舎裏の静かな場所へ向かう。
コンクリートの壁に囲まれた、小さな空間。昼間なのに音が遠くなる場所。
三年前、友達としての距離を守ってきた二人が今では自然に少しだけ近くに立っている。
しばらく無言の時間が過ぎる。けれど居心地が悪いわけではない。こうやって恒一の言葉を待つ時間は理依にとって心地の良いものだった。三年間ずっとそうやって言葉を交わしてきたから。
恒一は深く息を吸った。
「……先に言う」
声が少しだけ震える。
「これ、答えを急がせたい話じゃない」
理依は頷く。
……恒一らしい。
三年間、誰かの気持ちを踏みにじらない距離を大切にしてきた人だと知っている。
「高校に入ったとき」
恒一は、視線を落としたまま続ける。
「俺、何も期待してなかった。どうせ、また一人だって思ってた」
三年前の彼が重なる。
教室の端で誰ともつながりを持たなかった姿。過去の自分と重なる人だった。
「理依と話すようになって。分からないって言えて。……一人じゃないって、初めて思えた」
理依は何も言わない。
三年間で学んだことがある。
大事な言葉は遮らずに受け取るべきだということ。
この後の言葉やシチュエーションを理解できてしまっていてもそれは口にしない。
「依存じゃないってことも。ちゃんと、自分で立ててるってことも。今は、分かってる」
恒一が顔を上げる。
その目はもう逃げていない。
過去の自分とは違う道を辿った人の姿。
理依がずっと見て来た恒一の姿。
自分を真っ直ぐに見てくれる目。
「それでも」
一拍。
春の風が二人の間を通り抜ける。
「……好きだ」
声はまっすぐだった。
「友達としてじゃない。三年間一緒に過ごして。これからも、一緒に先を見たいって意味で」
その瞬間、理依の胸が静かに満ちる。
高鳴りではない。
驚きでもない。
「来るべき場所に、来た」という感覚。
心がとても温かい。
颯馬の意識が、確認する。
――強制なし。
――依存なし。
――選択可能。
理依の感性は、もう答えを知っている。
「……ありがとう」
声が、少しだけ揺れる。
「私も」
それ以上の言葉はいらなかった。
恒一がほっとしたように笑う。
三年間で何度も見た力の抜けたあの笑顔。理依がいつの間にか好きになっていた表情。
そしてこれからも見たい恒一の姿。
「……よかった」
春の風が再び校舎の間を抜ける。
遠くで誰かの笑い声がした。
卒業は終わりじゃない。
区切りだ。
理依は空を見上げる。
……私は。
選んだ。
この三年間で育てた関係を。
過去を抱えたまま誰かと並ぶ未来を。
恒一が隣に立つ。
「これから、どうする?」
理依は少し笑って答える。
「ゆっくりでいい」
恒一もうなずく。
「うん」
高校生活はここで終わる。だが名前を呼ぶ距離はもう変わらない。
それは三年間かけて育てた関係が確かに次の時間へ続いている証だった。
理依はその事実を胸の奥で静かに噛みしめ、心からの笑みを浮かべていた。




