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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第三十一話 行き先を選ぶ季節

 時間は思っていたよりも早く流れた。もう気づけば高校三年生。あっという間に二年の月日が流れた。変わらない友達の面々。けれどみんな確実に成長した。


 気づけば、教室の黒板の端に少しだけ斜めに貼られた白い紙がある。


〈進路希望調査〉


 チョークの粉がうっすらと残る黒板の上で、その文字だけが妙に現実的だった。


 教室の窓から入る冬の光は低く、机の影を長く伸ばしている。

昼間なのにどこか夕方に近い色だった。


 受験。

 模試。

 志望校。


 以前は先輩たちの話の中にしか存在しなかった言葉が今は自分の机の上に静かに置かれている。

もちろん颯馬だった時に一度経験している。それでも今の理依として経験するのは初めてだ。


 放課後の空気は時間と共に変わっていった。

チャイムが鳴ってもすぐに立ち上がる人は少ない。誰かの笑い声があってもそれは短くすぐに消える。

誰もが将来という現実を前にして、どこか不安げなのだ。


 代わりにシャープペンの芯が紙を擦る音が教室の隅々まで行き渡る。


 理依もその中にいた。


 机に向かい、ノートを閉じる。

ページの端が少し折れていて、そこに自分が過ごしてきた時間が詰まっている気がした。


 ……もう、高校生も終わりか。


 実感は遅れてやってくる。


 まだ制服も着ているし、明日も同じ教室に来る。


 それでも「戻れないところまで来た」という感覚だけが胸の奥に、確かに残った。


 颯馬の思考が冷静に動き始める。


 ――偏差値。

 ――合格可能性。

 ――選択肢の広さ。

 ――将来の可塑性。


 数字で世界を切り分け、合理的に道を選ぶ思考。

それは今も理依の中で生きている。


 模試の結果を見れば、その力が衰えていないことも分かる。


 でも今回はそれだけじゃ足りなかった。


 理依はペンを持ったまましばらく手を止める。


 窓の外では校庭の木々が風に揺れていた。

葉はもうほとんど残っていなくて、枝だけが空に向かって伸びている。


 ……私、将来どうなりたいんだろう。


「何になりたいか」


 その問いはこれまで何度も聞かれてきたはずなのに、いつも曖昧なまま通り過ぎてきた。


 医者でもない。

 研究者でもない。

 夢を一言で言えるほど、一つのことに人生を預けてきたわけじゃない。


 努力はしてきた。

結果も出してきた。


 でもそれは「なりたい姿」から逆算した努力じゃない。


 ……じゃあ。

 どう生きたいか。


 その問いなら、今の自分には答えられる気がした。


 教室の風景が自然と浮かぶ。

誰かの隣に座って、ノートを寄せ合って、「ここ、どう思う?」と小さく声をかける時間。

文化祭の準備で意見がぶつかったとき、言葉を整理して全体が動き出した瞬間。


 そして、恒一の姿。


 教室の隅。

視線を落としたまま、声を失っていた時間。


 それでも確かにそこにいた存在。


 ……颯馬みたいな人を。

 もう、増やしたくない。


 救う、なんて言葉は使えない。

そんな力はない。


 でも、気づくことはできる。


 黙り込む前に。

諦めてしまう前に。


 話を聞く。

言葉を整理する。

一緒に考える。


 それだけで人はほんの少しだけ前を向けることがある。


 ……人と関われる場所。


 颯馬の思考が、そこに理屈を重ねる。


 ――心理学。

 ――福祉学。

 ――教育学。

 ――対人支援。


 どれも知っている。

どれも必要な分野だ。


 でも、選びたい理由はもっと静かで、もっと個人的だった。


 ……机の上じゃなくて。

 近い距離で。

 人の人生に触れる仕事。


 誰かの決断のすぐ隣に立つ。誰かの迷いを軽く扱わない。

答えを与える人じゃなく、選ぶ時間に寄り添う人。


 模試の結果を見る。


 数字は、悪くない。

むしろかなりいい。


 颯馬の知識と、理依の集中力が、ここで確かに噛み合っている。


 ……選べる。


 その事実が胸の奥で静かに重さを持つ。

選択肢が多いというのは、自由であると同時に逃げられない責任でもある。


 どこへ行くか。

何を学ぶか。

どんな場所に身を置くか。


 それは全部、未来の自分に返ってくる。


 恒一と一緒に帰る道。


 夕方の空は冬特有の薄い青で、街灯が一つずつ灯り始めている。

吐く息が白く、それがすぐに消えていく。


「……進路、どうする?」


 恒一が、少し照れたように聞く。


「考え中」


 理依は、正直に答える。


「……そっか」


 恒一は少し間を置いてから言う。


「俺は、まだ全然」


 足元の影を見ながら、続ける。


「でも。前より、ちゃんと考えてる」


 その言葉に理依は微笑む。


 ……一緒だ。


 急がない。

でも、立ち止まらない。


 二人ともそれぞれの速度で、それぞれの未来に向かって歩いている。


 家に帰ると机に向かう。


 進路希望調査の紙。志望校を書く欄。その下にある志望理由。

空白のままの欄が静かにこちらを待っている。


 理依は、深く息を吸う。


 部屋の窓の外では、夜の冷気が静かに広がっている。

遠くで電車の音がした。


 ……私は。

 過去に縛られたまま、生きない。


 颯馬の人生も、理依の人生も、どちらも否定しない。


 でも、どちらかに戻ることもしない。


 抱えたまま、前に進く。


 ……誰かと、ちゃんと向き合える大人になる。


 話を聞いて、その人の選択を尊重できる人。

自分の価値観を押し付けず、それでも逃げずに関われる人。


 それが今の理依が描ける、一番正直な「なりたい自分」だった。


 ペンを走らせる。


 言葉はまだ整っていない。

拙くて、迷いも滲んでいる。


 でも、嘘はない。


 青春はあっという間だ。

だからこそ、選ぶ時間も、迷う時間も、無駄にはしない。


 窓の外、冬の空が、静かに澄んでいる。


 その冷たさの下で、理依は自分の行き先を感情ごと抱えながら、確かに見つめていた。


 未来はまだ白紙だ。


 でもどんな線を引きたいのかだけは、もうはっきりしている。

その自覚が理依の背中を静かに、前へ押していた。

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