第三十話 自分の輪郭
その夜、理依はなかなか眠れなかった。
布団に入って目を閉じても、胸の奥が静かにざわついている。
不安で眠れないわけじゃない。かといって、期待で高鳴っているわけでもない。
ただ、考えずにはいられなかった。
……これ。
恋、だよね。
文化祭の人混み。
放課後、並んで歩いた速度。
黒川恒一がクラスの中でふっと笑った顔。
それらが一本の線でつながって、曖昧だった感情にはっきりした形を与え始めている。
……好きだ。
その事実を心の中で認めた瞬間、胸に広がったのは高揚よりも戸惑いだった。
……でも。
私は、誰なんだろう。
その問いは避けてきたものだった。
布団から起き上がり、理依は静かに部屋の明かりをつける。
夜更けの部屋は静まり返っていて、自分の足音がやけに大きく聞こえた。
クローゼットの横に置かれた姿見の前に立つ。
そこに映った自分を、理依はしばらく黙って見つめた。
制服を脱いだあと、薄手の部屋着に包まれた身体。
肩のラインはまだ華奢だけれど、以前よりもなだらかだ。
胸元には確かに重みがある。腰から太ももにかけての曲線も数ヶ月前とは違っている。
……変わった。
否定の言葉じゃない。
ただの事実だった。
鏡の中の自分はもう「借り物の身体」には見えなかった。
成長途中で、未完成で、それでも確実に「女性としての身体」をしている。
……私は、女の身体で生きてる。
逃げようのない現実。
でも、それは恐怖ではなかった。
颯馬だった記憶が静かに浮かぶ。
男として生きていた時間。
理屈で感情を抑え込み、誰にも踏み込ませなかった日々。
……颯馬だった私は、男だった。
それも確かな事実だ。
思考の癖。距離の取り方。感情より先に分析してしまう防衛。
それらは、今も自分の中に残っている。
でも、姿見に映るこの身体は颯馬のものじゃない。
今ここに立っているのは、中村理依だ。
……私は。
男だった過去を持っている。
でも。
今の私は、女として生きてる。
鏡の中の自分がこちらを見返している。
その視線は戸惑っているけれど、拒絶していない。
……中途半端、なのかな。
一瞬、そんな言葉が浮かびかけて、理依はゆっくり首を振った。
違う。
中途半端なんじゃない。
ただ、時間が重なっているだけだ。
颯馬の時間と、理依の時間が、一本の線として続いている。
颯馬の思考が、静かに整理する。
――性自認は、過去の履歴では決まらない。
――今の自己認識と身体感覚が、現在の自分だ。
理依の感性がその理屈に体温を与える。
……この身体で。
この心で。
毎日、生きてるのは私。
恒一の隣にいるとき、
意識しているのは「男だった自分」じゃない。
誰かを気にかけて、誰かの表情を追って、同じ速度で歩いている感覚。
それはこの身体で、この心で、自然に生まれているものだった。
……私。
恒一のことを、女として好きなんだ。
その言葉を鏡の前ではっきり認める。
胸の奥が静かに震えた。
否定は起きない。
怖さはある。
でもそれ以上に、納得があった。
男だった過去がこの感情を邪魔しない。
……颯馬。
あなたは、孤独だった。
誰かを想う前に、自分が誰かとして存在することすら怖がっていた。
でも、今の私は。
誰かを好きになることを間違いだと思わなくていい。
それは理依の感性だ。
颯馬が持てなかった、柔らかさ。揺れながらも他者と関わろうとする力。
……だったら。
選んでいい。
誰に言われるでもなく、その考えが胸に落ちる。
颯馬の思考は抵抗しなかった。
むしろ静かに理解している。
――性別は、記憶が決めるものじゃない。
――今の身体と心が、未来を選ぶ。
……私は。
女性として、生きていく。
鏡の中の自分に、そう告げる。
それは過去を切り捨てる宣言じゃない。
颯馬を否定する言葉でもない。
男だった時間も、孤独も、理屈で自分を守ってきた強さも。
すべてが今の理依を作っている。
でも、これから誰かの隣に立つとき。
誰かに「好き」と伝えるとき。
選ぶのは、今の自分だ。
……理依として。
女性として成長しつつある身体で。揺れる心を抱えたままで。
胸の奥で、あの棘が少しだけ動く。
未だに消えない。
でも、深く刺さらない。
……大丈夫。
この選択は逃げじゃない。
姿見の前で理依は小さく息を吐く。
布団に戻るとさっきよりも身体が軽い。
明日、恒一に何かを言うわけじゃない。
告白もしない。関係も急に変えない。
ただ、自分の中で大切な位置を定めただけだ。
恋をしていること。
女性として生きていくこと。
その両方を否定しないと決めた。
……私。
幸せになっていい。
その言葉が今度は胸の奥に確かに根を下ろす。
夜は、まだ深い。
それでも理依は姿見に映った自分の輪郭をもう見失ってはいなかった。
揺れながらでも、選びながらでも、前に進める。そう信じられるだけの自我が、静かに、確かに、そこに育っていた。




