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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第三話 境界に触れる

 夜は平等に訪れるはずだった。


 少なくとも薮下颯馬は、そう思っていた。昼間にどんな人生を送っていようと、夜になれば世界は同じ暗さに包まれる。成功者も、幸福な家庭を持つ人間も、そして自分のような空洞も、同じ闇の中に沈むはずだった。


 部屋は静か。音がないというより、音が入り込む余地がない。壁も天井も、彼の存在だけを受け入れるために用意されたような空間。


 颯馬は机の引き出しを開ける。その動作に、迷いはなかった。ただ、そこに入っているものを取り出す必要があると、体が知っていた。


 白いケース。


 蓋を開けると、透明な小袋と、その中に白いカプセルが一粒だけ現れる。見慣れた薬の形状なのに、どこか少し違って見えた。重さが全く違うわけでも、大きさや形が特殊というわけでもない。

それでも、そこに「入り口」があるように感じられた。


 颯馬は椅子に腰を下ろし、カプセルを机の上に置く。それを見つめていると、視線が吸い寄せられる。自分が見ているのか、見られているのか、その区別が曖昧になる。


 彼女の名前を、心の中で呼んだ。


 中村理依。


 声に出していないのに、その音だけが部屋に広がった気がした。返事はない。だが、何も返ってこないことが不思議と不安にはならなかった。


 すでに境界は緩み始めている気がする。


 水を用意する。蛇口をひねる音が、やけに遠く聞こえた。現実の音なのに、別の層を隔てて届いてくるようだった。コップに水が満ちるのを眺めながら、時間の流れが均一でなくなっていくのを感じる。


 カプセルを手に取る。

指先に伝わる感触が、ひどく確かだった。これが最後に触れる「自分の輪郭」なのかもしれないと思うと、手を離すのが惜しくなる。


 ふっ……。

 惜しい、か。


 だが、ためらいは長く続かなかった。

口に含む。舌の上で転がる白が、異物としてはっきり存在を主張する。その重みが、今の自分のすべてのように思えた。


 飲み込む。


 水と一緒に、カプセルは体内へ消えた。

その瞬間、何かが閉じたような気がした。戻る道が静かに塞がれたのだ。


 最初は、何も起きなかった。

心臓はいつも通りに打ち、呼吸も乱れない。世界はまだ颯馬の視点で存在している。


 ……。


 やはりただのオカルトだったかと諦めようとした時だった。わずかな違和感が生まれた。

体の内側が、空洞ではなくなった。何かが満ちているわけではない。ただ、空白の質が変わった。


 胸の奥に、もう一つの位置がある。

そこに心臓があるわけでも、感情があるわけでもない。ただ、「在る」という感覚だけが、薄く脈打っている。


 颯馬は目を閉じた。闇の中で、自分の形を確かめる。


 手足の位置、呼吸の深さ、思考の速度。それらはまだ自分のものだ。

だが少しずつ、確信が持てなくなっていく。


 彼女が、近い。


 そう思った瞬間、その距離の概念自体が崩れた。

近いでも遠いでもない。重なっているとも言えない。ただ、同じ層に触れ始めている。


 彼女のことは何もわからない。記憶が覗けるわけでも、今まで生きてきた人生を見せてもらえるわけでもない。知らない風景も、声も、感情もない。それでも、存在の重さだけが伝わってくる。年齢の違う身体。別のリズムで呼吸する胸。自分より少し低い視点。


 それらは情報ではなく、感触だった。


 颯馬は必死に、自分を保とうとした。


 名前を思い出す。薮下颯馬。何度も繰り返す。

だがその音は次第に意味を失い、ただの振動に変わっていく。


 自分の境界が柔らかくなる。固体だったものが、ゆっくりと溶け、形を保てなくなる。

彼女の中に入り込んでいくというより、自分が薄められていく感覚に近かった。

自分という形を見失っていく。


 怖さはあった。だがそれは、拒絶するための恐怖ではない。

流れに逆らえば、より強く引き裂かれると知っている恐怖だった。


 彼女の存在が、内側に触れる。意識の奥でかすかな温度差のようなものを感じる。それが理依なのかどうか確信は持てない。ただ、自分ではない何かが、確かにそこにある。

魂と魂が触れた。そんな曖昧な感覚。


 境界が揺らぎ、輪郭がぼやける。

世界の焦点が合わなくなり、視界の端が溶けていく。


 意識を保とうとする。だが、保つべき「自分」が、どこにあるのか分からなくなっていく。


 思考が、静かに沈む。薮下颯馬という形は、まだ消えてはいない。

だが、もう独立した存在ではなかった。


 闇が、ゆっくりと覆いかぶさる。

完全な暗転ではない。ただ、何も区別できなくなる。


 その中で、彼は最後まで、自分の姿形を探していた。


 そして、見つからなかった。

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