第二十九話 輪郭を持つ場所
線を引いた日から、二人は少しだけ行動を変えた。
大げさな変化ではない。関係を壊すためでも、遠ざかるためでもない。
距離を置いたわけじゃない。会わなくなったわけでもない。
ただ、「一緒にいない時間」を、それぞれが意識的に増やした。
理依は、まず自分の時間を取り戻すようにした。
昼休み、教室を出て友達と購買に行く。
放課後、クラスの女子と駅前まで寄り道をする。
文化祭の準備期間にできた繋がりが、途切れることなく続いている。
「理依、今日も一緒帰る?」
「うん」
笑って答える自分に、違和感はない。
それどころか、胸の奥が少し軽い。
……前から、こうだった。
黒川と並ぶ時間が増えただけで、自分の世界が狭くなっていたわけじゃなかった。
誰かと笑って、他愛ない話をして、その日の出来事を共有する。
それが、ちゃんと自分の生活だった。
勉強の話を振られれば、自然に答える。
分からないところを聞かれれば、順を追って説明する。
けれど、誰かの人生を背負っている感覚は、もうない。
颯馬の知識は、ここでも役に立つ。
でもそれは、誰かの支柱になるためじゃない。
テスト前、机を囲んで数人に説明していると友達が言った。
「理依って、教えるの上手だよね。分かんないとこ、聞きやすいし」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
……これでいい。
これが、私の場所。
一方で理依は、黒川の変化を、少し離れたところから見ていた。
意識して見ようとしたわけじゃない。
ただ、目に入ってしまった。
授業前のちょっとした時間。
黒川が、前の席の男子に声をかけている。
「……昨日の課題、もう出した?」
一瞬の間。
相手が少し驚いた顔をしてから、答える。
「出したけど、あれ難しくなかった?」
「……やっぱそうだよな」
会話は短い。
でも、途切れない。
理依は、ノートを開いたまま、そのやり取りを横目で見ていた。
……今の。
自分から、話しかけた。
ほんの数秒のことなのに、胸の奥で何かが動く。
別の日の放課後。
黒川が、クラスの男子数人と教室に残っているのを見かけた。
理依は友達と廊下を通りながら、その様子を目にする。
「ここ、俺こうやったけど」
黒川の声が聞こえる。
「その方が分かりやすいな」
「マジ? ありがとう」
黒川が、少し照れたように笑う。
その瞬間を、理依ははっきり見てしまった。
誰かに認められている顔。
役に立っていると、実感している表情。
……ちゃんと。
輪に入っていってる。
黒川は、無理に中心に行こうとしていない。
でも、端に引っ込んでもいない。
自分が立てる場所を、慎重に探して、
一歩ずつ踏みしめている。
昼休み、教室で。
理依が席を立とうとすると黒川の笑い声が聞こえた。
振り向くとクラスメイトに何かをからかわれている。
「黒川、それ絶対違うだろ」
「いや、俺も今そう思ってた」
そのやり取りに以前のような硬さはない。
笑われることを、拒絶だと受け取っていない顔。
理依は、知らず息を止めていたことに気づく。
……よかった。
誰にも聞かせない小さな安心。
放課後、たまたま帰り道が一緒になる。
「最近、忙しそうだね」
理依が言うと、黒川は少し考えてから答える。
「……まあ。クラスで、ちょっと話すこと増えた」
その言い方は、控えめだけど、確かに前向きだ。
「悪くない」
短い言葉。
でも、そこに逃げはない。
沈黙があっても、不安はない。
理依は歩きながら、黒川の横顔を見る。
……私。
ちゃんと、見てる。
颯馬の思考が、冷静に確認する。
――依存の兆候は見られない。
――黒川は、自分の足で関係を築いている。
理依の感性が、静かに震える。
……だから。
安心して、見ていられる。
ある日、理依は決定的な場面を目撃した。
授業が終わり、教室がざわつく中。
黒川が、誰かに呼ばれている。
「黒川、今度の班、俺らと一緒な」
「……いいのか?」
「当たり前だろ」
黒川が、一瞬言葉を失ってから、
小さく頷く。
「……うん」
その横顔は、「混ぜてもらっている」ものじゃない。
必要とされている顔だった。
理依の胸の奥が、静かに鳴る。
……あ。
その瞬間、はっきり分かった。
好き、かも。
それは、急に押し寄せる感情じゃない。
衝動でも、依存でもない。
誰かの支えになっているからでも、誰かに必要とされているからでもない。
ただ自分の人生を歩こうとしている人を、ちゃんと見てしまったから。
その夜、布団の中で、理依は考える。
……この気持ちなら。
依存じゃない。
一緒にいない時間を持てる。
離れていても、相手が崩れない。
その上で、それでも近くにいたいと思う。
颯馬の棘が、胸の奥で微かに疼く。
でも、もう刺すほどの痛みじゃない。
……選べてる。
一緒にいることも。
見守ることも。
次に会ったとき、黒川は言った。
「……最近さ。クラスにいるの、前より楽」
理依は、少しだけ笑う。
「それ、顔に出てる」
黒川が、驚いたように目を瞬く。
「……ほんと?」
「うん」
二人の間には、もう「触れてはいけない線」だけじゃない。
それぞれが立つ場所を持ち、それでも視線が交わる柔らかな距離があった。
理依は、その距離を、悪くないと思った。
そしてはっきりと自覚していた。
黒川を「支える対象」としてではなく、「並びたい相手」として本格的に意識し始めていることを。
その気持ちは、もう後戻りできない形をしていた。




