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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第二十八話 揺れる境界

 それからしばらく、何事もなかった。

少なくとも、表面上は。


 授業があり、小テストがあり、放課後には、いつものように少し話す。


 教室の時間割も、人の配置も、特別な変化はない。

黒板に書かれる文字の量も、チャイムの音も、昨日と同じだ。


 けれど理依は、自分の内側だけが、確実に変わっていることを知っていた。


 黒川の姿を、無意識に探している。

教室に入るとき。廊下を曲がるとき。階段の踊り場を通るとき。


 視線が、思考よりも先に動く。


 ……別に。

 気にしなくていいのに。


 そう思えば思うほど、

意識していることが、逆にくっきりしてしまう。


 文化祭のあとから続いていた、あの穏やかな距離。

安心できる沈黙。並んで歩く時間。


 それらが、いつの間にか「基準」になりかけている。


 ある日の昼休み。

弁当を広げていると、友達が何気なく言った。


「理依さ、最近黒川くんと一緒にいること多いよね」


「そう?」


 声は自然だった。

でも、胸の奥がわずかにざわつく。


「うん。毎日見る気する。仲いいなーって」


 言葉は軽い。

責める調子でも、探る調子でもない。


「普通だよ」


 そう返しながら、本当に普通なのか、自分でも分からなくなる。


 ……普通って。

 こんなに、意識するものだっけ。


 放課後。

黒川と並んで歩いていると、向こうからクラスメイトが手を振ってきた。


「おー、二人で帰り?」


 その問いに、理依が答えるより早く、黒川が言った。


「うん」


 一瞬だけ、時間が止まったような感覚があった。


 ……今の。

 “二人で”って。


 特別な意味はない。

黒川にとっては、きっと何気ない返答だ。


 でも、その言葉が、胸の奥に残る。


 駅前で別れたあと、理依は一人で歩きながら考える。


 ……これって。

 何なんだろう。


 颯馬の意識が、冷静に整理を始める。

――接触頻度は高い。

――感情の安定が、特定の人物に依存し始めている。


 理依の感性が、すぐにそれを止める。


 ……考えすぎ。


 そう思っても、夜になるといつかの黒川の言葉が浮かぶ。


「理依といると、ダメじゃない気がする」


 その声を思い出すと、胸がきゅっと締まる。


 ……私も。

 安心してる。


 でもその先を考えようとすると、胸の奥ではっきりとした痛みが走る。


 棘のような、鋭い違和感。


 ……違う。

 これは、何かが違う。


 翌日。

黒川は、明らかに落ち着かない様子だった。


 授業中、ノートは取っているが、集中していない。

視線が何度もこちらに向く。


 放課後、理依が声をかける前に、黒川のほうから言った。


「……今日、ちょっといい?」


「うん」


 場所は、いつもの帰り道。

けれど、空気が違う。


 黒川は、歩きながら言う。


「最近さ」


 一拍。


「……理依といると、変なんだ」


 理依は、足を止めた。


「変?」


「……落ち着くし。楽だし」


 そこまでは、今までと同じ言葉だった。


「でも」


 黒川は、言葉を探すように間を置く。


「理依がいないと。急に、自分が薄くなる感じがして」


 理依の胸が、はっきりと揺れた。


 ……それ。

 それは。


「授業も、帰り道も、理依がどうしてるか、考えてて。……それが普通になってる」


 黒川は、困ったように笑う。


「これ、なんなんだろ」


 その言葉に、理依は深く息を吸った。


 颯馬の意識が、即座に判断する。

――これは恋ではない。

――自己評価の支点を、他人に移している。


 理依の感性が、その結論を受け取り、言葉を選ぶ。


「……黒川くん」


 静かに、名前を呼ぶ。


「それはね。誰かを好きになる感じとは、違う」


 黒川が、目を見開く。


「え……」


「黒川くんは今、“自分が大丈夫だと思える感覚”を私に預けようとしてる」


 言葉は、慎重に、でも逃げずに続ける。


「私がいるから安心。私がいるから、ちゃんと立てる。……それは、依存だと思う」


 黒川は、言葉を失う。


「俺……そんなつもり」


「分かってる」


 理依は、すぐに言う。


「無意識だと思う。だからこそ、言わなきゃいけない」


 一拍。


「私は、そういう関係は嫌」


 はっきりとした言葉だった。


「黒川くんが、自分で立つ感覚を誰かに預けるのは、違う。それが私だったとしても」


 沈黙が落ちる。


 黒川は、しばらく何も言えなかった。


 やがて、小さく頷く。


「……そう、だよな」


 声は掠れていた。


「……ごめん」


「謝らなくていい」


 理依は首を振る。


「気づけたから、言えただけ」


「言葉にしてくれて、ありがとう」


 別れ道。


「また明日」


「……また」


 それから、本当に何事もなかった。


 授業は進み、放課後は穏やかで、二人は以前と同じ距離で話す。


 黒川は、理依を基準にしなくなった。

理依も、それを感じ取り、踏み込みすぎない。


 関係は壊れなかった。

でも、形は変わった。


 夜、理依は布団に入って考える。


 ……黒川くんのこと。


 思い浮かべるだけで、

胸の奥に、鋭い痛みが走る。


 それは、甘い疼きじゃない。

恋に似た高揚でもない。


 理由の分からない、罪悪感のような、拒絶のような棘。


 ……好き、とは違う。

 でも、無関心でもない。


 黒川を思うたび、胸を刺すその痛みが、確かに存在している。


 それは、誰かに寄りかからせてしまう恐れなのか。

それとも、自分が誰かに寄りかかることへの恐怖なのか。

はたまた別の理由なのか。


 答えは、まだ出ない。


 友情と恋の境界は、相変わらず揺れている。


 けれど一つだけ、はっきりしている。


 理依はもう、誰かの居場所になる代わりに自分を失う選択はしない。


 その決意と引き換えに、胸に残った棘の痛みを今はまだ、抱えたままでいた。

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