第二十七話 渡された過去
それは、何でもない放課後のはずだった。
テストも近くない。提出物に追われる空気もなく、部活の掛け声も校舎の奥へと遠ざかっている。
秋と冬の境目のような時間帯で、夕方の光はどこか曖昧だった。
理依と黒川は、昇降口を出て、いつもの道を歩いていた。
言葉を交わさなくても、歩幅が揃う。足音が重なる。それがもう、不自然ではない。
「……今日さ」
黒川が、珍しく先に口を開いた。
その声には、ほんの少しだけ迷いが混じっていた。
「寄り道、していい?」
「いいよ」
即答だった。
理由を聞く前に、返事は出ていた。
コンビニに寄るわけでもなく、ゲームセンターに向かうでもない。
校舎裏の、小さな公園。
ブランコが二つと、錆びた鉄棒が一本。
遊具と呼ぶには心許ない、取り残されたような場所だった。
誰もいない。
黒川は、ベンチに腰を下ろしたまま、しばらく黙っていた。
スマホを出すこともなく、視線は前方の地面に落ちている。
理依は、隣に座らない。
ほんの少しだけ距離を空ける。
……待つ。
それは、状況を分析した颯馬の思考の判断ではなかった。
理依の感性が選んだ距離だった。
今は、踏み込まないほうがいい。でも、離れすぎてもいけない。
「……理依」
黒川が、前を見たまま言う。
「俺さ」
声が、いつもより低い。
「中学のとき」
一拍、間が空く。
「……教室、ほとんど喋らなかった」
理依は、何も言わない。
「嫌われてたわけじゃない。でも、誰も俺を必要としてなかった」
その言い方は、感情を押し殺しているようでいて、逆に生々しかった。
「グループはあったよ。席替えのときに、一応混ぜてもらう場所。でもさ……」
黒川は、唇を噛む。
「俺がいなくても、会話は続くんだ。俺が答えなくても、誰かが答える。……名前を呼ばれること、ほとんどなかった」
声をかける理由も。
声をかけられる理由も。
「……なかった」
理依の胸に、はっきりとした既視感が走る。
……颯馬。
それは、自分の過去の記憶とぴたりと重なる感覚だった。
教室の隅で、誰にも期待されず、誰にも拒絶されず、ただ「存在していない」ように扱われていた時間。
黒川は、淡々と続ける。
「最初は、別に平気だった。一人の方が楽だって思ってたし。無理に合わせなくていいし」
その言葉の裏にある防衛が、理依にははっきり分かった。
「でも」
黒川の手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「だんだんさ。自分が透明になる感じがして。……ここにいなくても、同じだなって」
教室にいるのに、いない。
名前があるのに、呼ばれない。
理依は、息を吸う。
遮らない。
否定しない。
急がせない。
それが、誰かが自分にしてほしかった対応だと、知っているから。
「部活も入らなかった。どうせ浮くだろって思って。帰りも、まっすぐ家に帰って。ゲームとか、動画とかで時間潰して……それで、一日終わる」
黒川は、少しだけ笑った。
「楽なはずだったんだけどさ。何も残らないんだよ。今日、俺なにしたっけ、って」
理依の中で、颯馬の声が重なる。
――何を成し遂げた?
――誰に必要とされた?
……同じだ。
同じ場所に、立ってた。
「だから、高校では」
黒川は、視線を上げずに言う。
「どうせ同じだって、最初から諦めてた。期待しなければ、傷つかないから」
その言葉は、理依の中の颯馬の記憶と、完全に重なった。
孤独を選んだのではない。
孤独しか、選べないと思い込んでいただけだ。
理依は、胸の奥で何かが静かに軋むのを感じた。
……私。
過去の自分を、見てる。
黒川は、そこでようやく理依を見る。
「……理依はさ。最初から、俺を特別扱いしなかったよな」
理依は、少し考えてから答える。
「うん。黒川くんが、そこにいたから。それだけ」
黒川は、目を見開いてから、ふっと息を吐いた。
「……それがさ。救いだった」
理依の胸が、微かに痛む。
救った、とは思えない。
特別なことをした覚えもない。
ただ彼が言葉を置ける場所に、たまたま自分がいただけだ。
「今は?」
理依は、そっと問いかける。
黒川は、少し驚いたように瞬きをした。
「……今?」
「うん」
少し考えてから、正直に言う。
「……分かんない。でも……諦める前に、立ち止まってる感じはする」
その言葉に、理依は頷いた。
「それで、いいと思う」
黒川は、目を伏せる。
「……理依には、話せた。なんでか分かんないけど」
理依は、静かに答える。
「話してくれたんだと思う。私が、聞けたから」
黒川は、少しだけ息を吐く。
「……ありがとう」
理依は、首を振る。
「それ、いらない」
黒川が、困ったように笑う。
「……じゃあ……そばにいてくれて、で」
理依の胸が、確かに揺れた。
……それ。
今は、受け取っていい。
「うん」
短く、答える。
帰り道、夕焼けが道路を染めている。
オレンジ色の光の中で、二人の影が並んで伸びる。
理依は、歩きながら思う。
……私。
今、ちゃんと誰かと生きてる。
その感覚に、温かさがある。
同時に、胸の奥で棘が、静かに疼く。
……まだ。
まだ、全部じゃない。
過去を奪った事実。
他人の人生を背負っているという意識。
それは消えない。
でも、否定もしなかった。
黒川の過去を受け取ったことで、理依の中に、確かな変化が生まれていた。
それは、誰かの人生を奪った存在ではなく、誰かと人生を重ねて生きているという実感だった。
友情と恋の境界は、まだ曖昧だ。
けれど、この日を境に、二人の関係は、もう戻れない場所を静かに越えていた。
そして理依は、はっきりと理解し始めていた。
颯馬として孤独だった自分は、今理依として、同じ孤独を生きてきた誰かの隣にいる。
それは過去への贖いであり、同時に未来への一歩でもあった。




