第二十五話 積み重なる普通
文化祭が終わっても、その余韻はすぐには消えなかった。
教室の壁から装飾が剥がされ、色とりどりだった模造紙が回収される。机の配置も、何事もなかったかのように元へ戻り、教室は再び、いつもの顔を取り戻した。
それでも。
人と人との距離だけが、少しだけ違っていた。
「おはよう」
「……おはよう」
朝の挨拶が、当たり前になる。
声の高さも、言い終わるまでの間も、もう測らない。
理依は、黒川と並んで登校する時間が増えていくことを、特別な変化だとは思わなかった。気づけば自然に横にいて、気づけば同じ方向へ歩いている。
……普通だね。
そう思う。
ただ、その「普通」が、少し前までは存在しなかっただけだ。
廊下ですれ違うクラスメイトが、二人を見て一瞬だけ視線を向けることがあっても、理依は気にしなかった。説明する必要も、言い訳する必要も感じなかった。
放課後、テスト前になると、自然に一緒に教室に残るようになる。
窓の外が少しずつ暗くなり、校舎の中に静けさが戻る頃、二人は同じ机を挟んで問題集を開く。
「ここ、どう解いた?」
「……この式、少し難しい」
黒川は指で一行なぞりながら、一生懸命勉強している。
「ここはね――」
理依は時折黒川にわからないところを教えてあげる。
会話は短く、効率的だ。颯馬の思考が論理を組み立て、理依の感性が空気を柔らかくする。互いに無理をしない、ちょうどいいテンポ。
黒川は、少しずつ変わっていった。
以前より、顔を上げて歩くようになった。誰かに声をかけられたとき、視線を逸らさずに返事をする。制服のシャツに、以前ほど乱れがない。
理依は、その変化を見ながら、何も思わないふりをした。
……気づいてるけど。
意味づけは、しない。
昼休み、二人で購買へ行く。
人が多く、通路はいつも通り混んでいる。
「混んでるな」
「いつもだよ」
同じ棚の前で立ち止まり、同じパンを手に取って、思わず小さく笑う。それだけのこと。でも、それが心地いい。
その日、教室に戻る途中で、理依の友達が声をかけてきた。同じクラスの女子だ。
「ねえ、理依」
「なに?」
歩きながら、何気ない調子で続ける。
「黒川と、最近一緒にいるよね」
「うん。勉強」
「だよね」
一度、言葉を切る。
「……黒川さ、前は放課後、誰かと残るとか絶対しなかったよ」
その一言に、理依の足がほんの少しだけ遅れる。
「人に頼るのも、並んで歩くのも、あの子すごく苦手だったし」
軽い口調。でも、内容は核心に近い。
「文化祭のときも思ったけどさ」
友達は前を向いたまま、ぽろっと言う。
「理依の前だと、黒川、全然違うよ」
胸の奥で、何かがひっかかる。
「……そうかな」
声は平静。でも、内側で何かが揺れた。
「うん。違う。たぶん、黒川も気づいてないけど」
そこで友達は、少しだけ理依を見る。
「理依は、気づいてる?」
その瞬間。
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
……っ。
理由が分からない。ただ、棘のようなものが、心の内側に触れた感覚。文化祭の高揚とは違う、静かで冷たい痛み。
……なに、今の。
意識し始めている。
黒川のことを、特別だと感じ始めている。
その事実が、はっきり形を持った瞬間だった。
「……分かんない」
理依は、そう答えた。
嘘ではない。でも、全部でもない。
友達はそれ以上踏み込まず、「そっか」とだけ言って話題を変えた。それが、余計に現実味を帯びさせる。
家に帰ってから、布団に入る。
天井を見上げながら、理依は考える。
……楽しい。
黒川と話す時間。並んで歩く感覚。沈黙が苦しくないこと。
その感情が浮かぶたび、胸の奥が温かくなる。けれど同時に、あの棘が、じくりと痛む。
……どうして。
理由が見つからない。
颯馬の思考が、冷静に整理しようとする。
――依存ではない。
――感情は安定している。
――選択肢は失われていない。
理依の感性が、それでも違和感を拾い上げる。
……なのに、痛い。
誰かを想うことが、なぜか許されないような感覚。名前のない罪悪感。触れようとすると、内側から拒まれる。
翌日。
教室で席につくと、黒川がこちらを見る。
「……今日、残る?」
「うん」
それだけで、放課後の予定が決まる。
誰かに説明する必要もない。
理由をつける必要もない。
友情と恋の境界は、まだ名前を持たない。
けれど、積み重なる普通は、確実に形を変えていく。
理依は、それを急がなかった。
急げば、あの棘が深く刺さる気がしたから。
まだ触れない。
まだ決めない。
そうしていれば、この関係は壊れない気がした。
今は、それでいいと、理依はちゃんと分かっていた。




