第二十四話 人波の中の距離
気づけばもう文化祭の季節。
文化祭の準備期間は、教室の空気をゆっくり、しかし確実に変えていった。
いつもはきっちり揃えられている机が、話し合いのたびに少しずつ位置をずらされ、気づけば島のような配置になる。椅子を引く音、ガムテープを引きちぎる乾いた音、誰かが落としたペンが床を転がる音。そうした雑多な音が、放課後の教室を満たしていた。
壁には模造紙が貼られ、カラーペンの匂いが微かに漂う。普段は掲示物だけが静かに並ぶ場所に、手書きの文字やイラストが加わり、教室は一時的に別の顔を持ち始めていた。
理依は、その変化の中心にいた。
理依のクラスは、展示と軽い体験コーナーをやることになった。派手ではないが、来た人が少し立ち止まり、触れて、考えて帰るような内容だ。誰かが強く仕切るわけでもなく、自然と役割が割り振られ、気づけばそれぞれが動いている。
理依は友達数人と一緒に、装飾や導線の確認に追われていた。
「理依、この説明パネルさ、もうちょい前に出したほうがよくない?」
「うーん……ここだと、人が止まると後ろ詰まりそう。もう少し壁寄せよう」
言葉が出る前に、人の流れを想像している自分に理依は気づく。
……まただ。
こういう仕事っぽいことをすると颯馬の経験が、無意識に強く前へ出てくる。経験則、効率、最適解。けれど、それを口にするときの声色や表情は、ちゃんと理依のものだった。
これも私だから。
「理依、全体見るのうまいよね」
「なんか自然に仕切ってる感じ。店長みたい!」
「え、そんなことないよ」
理依は少しだけ笑って肩をすくめる。
「……たまたま」
「その“たまたま”が毎回だから言ってるんだけど」
軽い笑いが起きる。
褒められても、胸の奥は不思議なほど静かだった。
……便利なだけだよ。
誰にも聞こえない場所で、そう返す。
準備期間は忙しいけれど、嫌ではなかった。放課後に残る理由があり、同じ方向を向いて動いている。その事実が、教室の空気を柔らかくしていた。
迎えた当日。
校舎は、別の場所のようだった。
廊下には人が溢れ、見慣れない制服が行き交う。あちこちから笑い声が弾け、揚げ物と甘いお菓子の匂いが混ざり合い、空気そのものが浮き足立っている。
理依はクラスのブースに立ちながら、友達と交代で呼び込みをしていた。
「いらっしゃいませー」
「体験できますよー」
声を張るのは少し恥ずかしい。でも隣に友達がいると、不思議と平気だった。
「理依、声意外と通るね」
「ほんと? 叫んでない?」
「全然。落ち着いてる感じ」
そんなやり取りをしながら、理依は時々、教室の外へ視線を向ける。
……黒川くん。
探すつもりはなかったのに、姿はすぐに見つかった。
人混みの端。壁際に寄るように立ち、周囲と少し距離を取っている。その立ち方は、彼らしかった。
……無理してないかな。
心配というより、確認だった。そこにいる。ちゃんと来ている。それだけで、胸の奥が少しだけ落ち着く。
「理依、外の様子見てきていいよ」
友達が軽く言う。
「人多いし、導線大丈夫か見てきて」
「うん、分かった」
廊下に出た瞬間、人の流れに押される。肩と肩が触れ、足元に注意しないとぶつかりそうになる。
「あ、ごめん」
「……あ」
声が重なった。
顔を上げると、黒川だった。
「……大丈夫?」
「うん」
距離が、いつもより近い。人の流れに挟まれて、腕が触れそうで、触れない。
……近いね。
その感覚に、理由はつけない。
「人、多いな」
「文化祭だもん」
二人で並んで歩く。人の流れが、勝手に距離を縮めたり、少し離したりする。
「黒川くん、どこ回ってたの?」
「……友達に、誘われて」
一瞬の間。
……あの黒川くんが、誘われて。
よかった。
理依は気づいたけれど、何も言わない。
「楽しい?」
「……まあ」
短いけれど、嘘はない。
角を曲がったところで、急に人が押し寄せる。
黒川が反射的に理依の腕を引いた。
一瞬。
距離が、ゼロになる。
心臓が、はっきり鳴った。
……あ。
驚きはある。でも、嫌じゃない。
黒川もすぐに手を離す。
「……ごめん」
「ううん」
言葉が、少しだけ遅れる。
……今の、なんだったんだろ。
理由は探さない。でも、胸の奥が落ち着かない。
クラスの前に戻ると、友達がちらりと黒川の背中を見てから、理依を見る。
「……今の、黒川だよね」
「うん」
「そっか」
にやっとするけれど、どこか納得したような顔。
「黒川、ああいう人混み苦手なのに」
「え?」
「でもさ、理依と一緒だと普通に歩いてた」
言葉は軽い。でも、黒川をよく知っているからこその観察だった。
「……そう?」
理依は首を傾げる。本気で分からない。普通とは?
「まあ、本人が何も言わないならいいけど」
そう言って、友達はそれ以上踏み込まない。
黒川は少し離れたところで、友達と話している。でも、時々、視線が交わる。
そのたびに、胸が少しだけざわつく。
……変だな。
颯馬の意識が、分析しようとする。
――接近。身体反応。心拍上昇。
理依の感性が、それを静かに止める。
……今は、いい。
夕方。片付けが始まる。
装飾を外し、ゴミ袋を持って廊下を歩く途中、黒川がぽつりと言った。
「……文化祭、嫌いじゃなかった」
「珍しいね」
「……理依がいたから」
言ってから、黒川は少しだけ目を逸らす。
理依は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
……それ、理由として成立してる?
問いは浮かぶ。答えは、まだいらない。
文化祭は、終わる。非日常は、片づけられる。
でも、人波の中で縮んだ距離は、元には戻らなかった。
二人はまだ、それを恋とは呼ばない。
ただ、相手がいる場所を、自然に探すようになっただけ。
それだけで、世界は、少し違って見え始めていた。




