第二十二話 並ぶ速度
それから、会話は少しずつ増えた。
増えたと言っても、劇的な変化ではない。
急に長話をするようになったわけでも、放課後に毎日一緒に帰るようになったわけでもない。
ただ、挨拶が確実になる。目が合ったときに、逸らされなくなる。言葉を交わさなくても、互いの存在を意識していることが分かる。
その程度の変化だった。
けれど、理依には分かっていた。
それが、黒川 恒一にとっては、かなり大きな前進であることを。
彼は、何かを一気に変えるタイプではない。
安全だと確認できた場所に、慎重に足を置き、それが崩れないと分かってからようやく次の一歩を考える。
それは弱さではない。
何度も、踏み出した先で傷ついてきた人間の、極めて合理的な生存戦略だ。
朝。
教室に入ると、いつものざわめきがある。
椅子を引く音。
ロッカーを閉める音。
週末の話題や、テストの愚痴が飛び交う声。
理依が自分の席に向かう途中、少し低めの声が聞こえる。
「おはよう」
振り向くと、黒川がこちらを見ている。
声は小さいが、視線は逃げていない。
「おはよう」
理依が返すと、黒川は小さく頷く。
それだけで会話は終わる。
でも、その終わり方が、前よりも自然だった。
どちらも「ここで終わり」と分かっていて、そのことに変な気まずさが残らない。
……並んでる。
理依は、そう感じる。
同じ教室にいて、
同じ時間割をこなして、
同じチャイムを聞いている。
けれど、無理に足並みを揃えようとはしない。
急がない。引っ張らない。
それでも、歩く向きが同じであることは、確かだった。
昼休み。
理依が自分の席でノートを広げ午前中の授業の復習をしていると、後ろから聞き慣れた低い声がした。
「……その問題」
振り向くと、黒川が立っている。
いつもより、ほんの少し距離が近い。
「三行目、途中で符号変わってる」
指先で、ノートの一部を示す。
無駄のない動き。
視線は、問題文に向けられたままだ。
「……ほんとだ」
理依は、素直に言う。
言い訳も、取り繕いもない。
「ありがとう」
黒川は、一瞬だけ視線を泳がせてから、「……うん」とだけ答え、自分の席に戻った。
……話しかけてきた。
颯馬の意識が、冷静に事実を拾い上げる。
――彼は、自分から関わる理由を作った。
――「勉強」という、最も安全な形で。
――拒絶されにくく、失敗しても傷が浅い方法。
理依の感性は、それを壊さない。
……いい選び方だと思う。
彼が選んだ踏み出し方を、尊重する。
それは、焦らせないことと同じ意味だった。
放課後。
昇降口で靴を履き替えるタイミングが、偶然重なる。
本当に偶然なのか、それとも、互いに少しだけ意識して時間を合わせているのかは分からない。
「……今日は?」
黒川が、短く聞く。
疑問形なのに、詰問の響きはない。
「まっすぐ帰るよ」
「……俺も」
それだけで、二人は並んで歩き出す。
距離は、腕一本分。
近すぎれば緊張する。遠すぎれば、並んでいる意味が薄れる。
その中間の、ちょうどいい距離。
沈黙が続く。
でも、その沈黙は、重くなかった。
何か話さなければいけない、という圧がない。沈黙そのものが、会話の一部として成立している。
……話さなきゃ、って思わなくていい。
それは理依が作った空気で、黒川が安心して乗ってきた空気だった。
校門を出たところで、黒川が言う。
「……理依ってさ」
呼び捨て。
それだけで、胸の奥が、ほんの少しだけ動く。
嫌な違和感ではない。
名前が、きちんと「相手に届いている」と分かる感覚。
「何?」
理依は、歩きながら答える。
「……その」
言葉を探す間。
黒川の歩幅が、わずかに乱れる。
理依は、歩く速度を落とす。
意図的ではない。自然に、相手に合わせる。
「……誰とでも、同じ距離で話すよな」
少し考えてから、理依は答える。
「そうかな」
即答はしない。
自分を客観的に見ようとする。
「うん」
黒川は、短く肯定する。
「……でも」
そこで言葉が途切れる。
続きが、すぐに出てこない。
理依は、待つ。
急かさない。沈黙を、未完成な失敗にしない。
「……それ、助かる」
声は小さい。
言い切るほどの強さはない。
でも、確かに本音だった。
……そっか。
理依は、少しだけ笑う。
「それなら、よかった」
それ以上、言葉は足さない。
説明もしない。
「どういう意味?」とも聞かない。
颯馬の思考が、静かに整理する。
――彼は、特別扱いを怖れている。
――同時に、無関心にも傷ついてきた。
――どちらも、過去の経験が作った防衛反応。
理依の感性が、結論を出す。
……だから。
同じ速度で、隣にいればいい。
引っ張らない。置いていかない。
でも、立ち止まり続けるわけでもない。
分かれ道で、二人は立ち止まる。
「じゃあ、また明日」
「……また」
黒川は、少しだけ視線を上げて言った。
その視線は、もう逃げていない。
家に帰る道、理依は考える。
……助ける、じゃない。
置いていかない、でもない。
ただ、一緒に歩ける速度を、勝手に上げないだけ。
それは、颯馬だった頃にはできなかった選択だ。
急ぎすぎて、遅れている自分も、他人も、置き去りにしていた。
今は違う。
理依の感性が、颯馬の経験をちゃんと使っている。
高校生活は、まだ続く。
答えは、まだない。
でも教室の隅だった場所は、もう完全な孤島じゃなくなっていた。
そこには、声をかけてもいい距離と、黙っていても壊れない時間が生まれている。
並ぶ速度は、少しずつ、確かに、揃い始めていた。




