表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
22/52

第二十二話 並ぶ速度

 それから、会話は少しずつ増えた。


 増えたと言っても、劇的な変化ではない。

急に長話をするようになったわけでも、放課後に毎日一緒に帰るようになったわけでもない。

ただ、挨拶が確実になる。目が合ったときに、逸らされなくなる。言葉を交わさなくても、互いの存在を意識していることが分かる。


 その程度の変化だった。


 けれど、理依には分かっていた。

それが、黒川 恒一にとっては、かなり大きな前進であることを。


 彼は、何かを一気に変えるタイプではない。

安全だと確認できた場所に、慎重に足を置き、それが崩れないと分かってからようやく次の一歩を考える。


 それは弱さではない。

何度も、踏み出した先で傷ついてきた人間の、極めて合理的な生存戦略だ。


 朝。

教室に入ると、いつものざわめきがある。

椅子を引く音。

ロッカーを閉める音。

週末の話題や、テストの愚痴が飛び交う声。


 理依が自分の席に向かう途中、少し低めの声が聞こえる。


「おはよう」


 振り向くと、黒川がこちらを見ている。

声は小さいが、視線は逃げていない。


「おはよう」


 理依が返すと、黒川は小さく頷く。

それだけで会話は終わる。


 でも、その終わり方が、前よりも自然だった。

どちらも「ここで終わり」と分かっていて、そのことに変な気まずさが残らない。


 ……並んでる。


 理依は、そう感じる。


 同じ教室にいて、

同じ時間割をこなして、

同じチャイムを聞いている。


 けれど、無理に足並みを揃えようとはしない。

急がない。引っ張らない。


 それでも、歩く向きが同じであることは、確かだった。


 昼休み。

理依が自分の席でノートを広げ午前中の授業の復習をしていると、後ろから聞き慣れた低い声がした。


「……その問題」


 振り向くと、黒川が立っている。

いつもより、ほんの少し距離が近い。


 「三行目、途中で符号変わってる」


 指先で、ノートの一部を示す。

無駄のない動き。

視線は、問題文に向けられたままだ。


「……ほんとだ」


 理依は、素直に言う。

言い訳も、取り繕いもない。


「ありがとう」


 黒川は、一瞬だけ視線を泳がせてから、「……うん」とだけ答え、自分の席に戻った。


 ……話しかけてきた。


 颯馬の意識が、冷静に事実を拾い上げる。


 ――彼は、自分から関わる理由を作った。

 ――「勉強」という、最も安全な形で。

 ――拒絶されにくく、失敗しても傷が浅い方法。


 理依の感性は、それを壊さない。


 ……いい選び方だと思う。


 彼が選んだ踏み出し方を、尊重する。

それは、焦らせないことと同じ意味だった。


 放課後。

昇降口で靴を履き替えるタイミングが、偶然重なる。

本当に偶然なのか、それとも、互いに少しだけ意識して時間を合わせているのかは分からない。


「……今日は?」


 黒川が、短く聞く。

疑問形なのに、詰問の響きはない。


「まっすぐ帰るよ」


「……俺も」


 それだけで、二人は並んで歩き出す。


 距離は、腕一本分。

近すぎれば緊張する。遠すぎれば、並んでいる意味が薄れる。


 その中間の、ちょうどいい距離。


 沈黙が続く。


 でも、その沈黙は、重くなかった。

何か話さなければいけない、という圧がない。沈黙そのものが、会話の一部として成立している。


 ……話さなきゃ、って思わなくていい。


 それは理依が作った空気で、黒川が安心して乗ってきた空気だった。


 校門を出たところで、黒川が言う。


「……理依ってさ」


 呼び捨て。


 それだけで、胸の奥が、ほんの少しだけ動く。

嫌な違和感ではない。

名前が、きちんと「相手に届いている」と分かる感覚。


「何?」


 理依は、歩きながら答える。


「……その」


 言葉を探す間。

黒川の歩幅が、わずかに乱れる。


 理依は、歩く速度を落とす。

意図的ではない。自然に、相手に合わせる。


「……誰とでも、同じ距離で話すよな」


 少し考えてから、理依は答える。


「そうかな」


 即答はしない。

自分を客観的に見ようとする。


「うん」


 黒川は、短く肯定する。


「……でも」


 そこで言葉が途切れる。

続きが、すぐに出てこない。


 理依は、待つ。

急かさない。沈黙を、未完成な失敗にしない。


「……それ、助かる」


 声は小さい。

言い切るほどの強さはない。


 でも、確かに本音だった。


 ……そっか。


 理依は、少しだけ笑う。


「それなら、よかった」


 それ以上、言葉は足さない。

説明もしない。

「どういう意味?」とも聞かない。


 颯馬の思考が、静かに整理する。


 ――彼は、特別扱いを怖れている。

 ――同時に、無関心にも傷ついてきた。

 ――どちらも、過去の経験が作った防衛反応。


 理依の感性が、結論を出す。


 ……だから。

 同じ速度で、隣にいればいい。


 引っ張らない。置いていかない。

でも、立ち止まり続けるわけでもない。


 分かれ道で、二人は立ち止まる。


「じゃあ、また明日」


「……また」


 黒川は、少しだけ視線を上げて言った。

その視線は、もう逃げていない。


 家に帰る道、理依は考える。


 ……助ける、じゃない。

 置いていかない、でもない。


 ただ、一緒に歩ける速度を、勝手に上げないだけ。


 それは、颯馬だった頃にはできなかった選択だ。

急ぎすぎて、遅れている自分も、他人も、置き去りにしていた。


 今は違う。


 理依の感性が、颯馬の経験をちゃんと使っている。


 高校生活は、まだ続く。

答えは、まだない。


 でも教室の隅だった場所は、もう完全な孤島じゃなくなっていた。


 そこには、声をかけてもいい距離と、黙っていても壊れない時間が生まれている。


 並ぶ速度は、少しずつ、確かに、揃い始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ