第二十話 教室の隅の輪郭
高校生活は、驚くほど順調だった。
順調、という言葉は、ともすれば軽く聞こえる。けれど理依にとってそれは、単に成績がいいとか、友達ができたという意味だけではなかった。
朝、制服に袖を通すときに感じるためらいがないこと。教室の扉を開けるとき、胸の奥に小さく灯る緊張が、期待と同じ重さであること。
その一つ一つが、順調だと感じさせた。
気づけば、理依は自然に輪の中にいた。
無理に明るく振る舞う必要はない。かといって、黙り込んで存在を薄くすることもない。
話題が振られれば応じるし、誰かが話していればきちんと聞く。意見があれば言うし、なければ笑って流す。
その距離感が、今の理依にはちょうどよかった。
中学生の頃よりも、少しだけ視野が広くなった。
全員と仲良くする必要はない。でも、関わることを最初から拒む必要もない。
「理依ってさ、頭いいのにガリガリじゃないよね」
昼休み、机を寄せ合って弁当を食べているときに、そんなことを言われた。
唐突で、少し失礼にも聞こえる言い方。
でも、悪意はない。
「どういう意味?」
理依が聞き返すと、言った本人は少し慌てたように手を振る。
「いや、ほら、頭いい人ってさ、もっと近寄りがたい感じあるじゃん。でも理依は、ちゃんと人と話す感じっていうか」
別の子が、横から笑いながら口を挟む。
「分かる。話しかけやすい。なんか、安心感あるよね」
理依は、小さく笑った。
……それ、褒め言葉だよね。
胸の奥で、そう確認する。
否定する理由はなかった。
勉強も問題なかった。
授業の内容は、無理なく理解できる。
テスト前に焦ることもない。
成績は安定していて、特別に目立つことも、極端に埋もれることもなかった。
颯馬の知識は、ここでは「前に出すもの」ではない。
誰かを圧倒するための武器ではなく、必要なときに静かに支える土台だった。
答えが分かるからといって、すぐに手を挙げる必要はない。
誰かがつまずいていれば、さりげなくフォローする。
それで十分だった。
放課後は、友達と寄り道をすることもある。
駅前のコンビニで新作のお菓子を買って、ベンチに並んで座り、味の感想を言い合うだけの時間。
購買のパンを分け合って、「これ当たりだよ」「いや微妙」と他愛ない議論をしたり、帰り道で、誰かの失敗談を聞いて笑ったり。
……楽しいな。
その感情に、罪悪感はなかった。
かつてなら、楽しさを感じるたびに、「こんなふうに笑っていていいのか」と、自分を責める声がどこかで響いていた。
今は違う。
棘は、まだ胸の奥にある。
消えてはいない。
でも、それは喜びを否定するためのものではなかった。
忘れないためのもの。
背負っていることを、自覚し続けるためのもの。
そんな日々の中で、
理依は、ある違和感に気づいた。
教室の、いちばん隅。窓際でもなく、廊下側でもない。一番後ろの、端の席。
そこに、いつも同じ男子が座っている。
……あれ?
最初は、本当に意識の端に引っかかる程度だった。
授業中、誰とも話さない。
休み時間になっても、席を立たない。
スマートフォンを触るわけでも、本を読むわけでもない。
ただ、座っている。
視線は、黒板か、机の上か、あるいは虚空。
誰かを避けている様子でもない。でも、誰かを迎え入れる気配もない。
……一人だ。
気づいた瞬間、胸の奥が静かに反応した。
……知ってる、この感じ。
颯馬の思考が、即座に状況を整理する。
――周囲と断絶しているわけじゃない。
――露骨に孤立しているわけでもない。
――でも、自分から輪に入る意思が見えない。
――結果として、誰とも深く関わらない位置に留まっている。
理依の感性が、その分析をやわらかく包む。
……放っておかれちゃうタイプだ。
クラスには、自然と中心ができる。
声が大きい子、話題を回すのが得意な子。
そこに人が集まり、輪ができる。
彼は、その輪から少し離れた場所にいる。
誰も嫌っていない。悪口を言う人もいない。
でも、誰も踏み込まない。
名前を知ったのは、出席番号を呼ばれたときだった。
「……黒川」
教師の声。
「黒川 恒一」
短く、控えめな返事。
「はい」
それだけ。
……黒川、くん。
苗字と名前を、頭の中でなぞる。
黒川 恒一。
字面は堅い。でも、本人の雰囲気は、静かで、薄い影のようだった。
昼休み、理依はさりげなく彼の方を見る。
黒川は、机に肘をつき、窓の外を見ている。
校庭で動く人影を追っているわけでもない。雲の形を眺めているわけでもない。
何かを考えているようで、何も考えていないようにも見える。
……似てる。
はっきりと、そう思った。
颯馬だった頃の、自分。
教室の中にいながら、どこにも属していなかった感覚。
誰かと話せば普通に会話はできるのに、自分から距離を詰める理由が見つからなかった日々。
……あの頃の私だ。
胸の奥の棘が、かすかに疼く。
……だから、気づいちゃったんだね。
友達と話しながらも、理依の意識は、教室の隅に向いていた。
声をかけることは、できる。「おはよう」と言うだけなら、難しくない。
でも、それが彼にとってどう響くかは、分からない。
……まだ、今は。
声をかけない。
颯馬の意識が、冷静に判断する。
――急に踏み込むと、警戒される。
――彼は、今の距離で均衡を保っている。
――善意でも、崩すべきではないタイミングがある。
理依の感性が、その判断に頷く。
……でも。
見ないふりは、しない。
それだけは、はっきりしていた。
この高校で、理依はもう「一人に気づかない側」には戻れない。
過去の自分を知ってしまったから。
孤独の形を、身体の感覚として覚えているから。
教室のざわめきの中で、黒川 恒一は、今日も同じ席に座っている。
誰にも見られていないようで、でも、確かにここにいる存在として。
理依は、その輪郭を、心の中でそっと覚えた。
まだ、声はかけない。
でも、もう見失わない。
それだけで、この出会いは静かに始まっていた。




