第二話 選択
荷物は、思ったよりもあっけなく届いた。
小さな段ボール箱。宛名も差出人も簡素で、どこか事務的だった。
颯馬はそれを受け取り、部屋に戻ってからしばらく開けずに床に置いたまま眺めていた。特別なものが届いたという実感はない。
ただ、そこに「もう後戻りできない可能性」が詰まっていることだけは、はっきりと分かった。
箱を開けると、中には小さなケースが一つと、紙切れが入っていた。説明書というには短すぎる文章だ。
――対象を明確に想定した状態で使用すること。
――魂の拒絶反応が起きた場合、融合は不完全となる。
――元に戻れなくなる可能性あり。
それ以上の説明はない。効能も成功率も、倫理的な注意書きもない。ただ、結果だけが突きつけられている。
颯馬はケースを閉じ、机の引き出しの奥にそれらをしまった。
まだ、使うつもりはない。誰に憑依するのかを決めないままこの薬を使うことだけはできない。
それからの数日間、颯馬の日常は表面上、何一つ変わらなかった。いつものように朝起きて、会社に行き、仕事をして、帰宅する。ただ一つ変わったのは、人を見る目だった。
道ですれ違う女性を、ひとりひとり意識的に観察するようになった。
年齢。服装。表情。歩き方。隣に誰がいるか。
一人で歩いている人、誰かと笑い合っている人、スマートフォンを見ながら無表情で歩く人。颯馬は、まるで候補を探すように、それらを頭の中で分類していく。
会社の同僚。駅のホームに立つ学生。コンビニの前で談笑する若い女性たち。
どの人生も、どこか違った。
「……違う」
何が違うのかは、うまく言葉にできなかった。ただ、自分がそこに入り込む姿が想像できない。年齢が近すぎると、過去が透けて見える。年上すぎると、背負ってきたものの重さに息が詰まりそうになる。かといって幼児のような幼さは不便だと思った。
本当に憑依できるかなんて、わからないのに……。
その夜、久しぶりに母からメッセージが届いた。
〈元気にしてる?〉
〈最近寒くなってきたから、体調気をつけなさい〉
それだけの文章だった。責めるわけでも、深入りするわけでもない、いつも通りの距離感。それなのに、颯馬はスマートフォンを伏せ、しばらく動けなくなった。
――もう、疲れた。
颯馬として生きることに。
この名前で、この身体で、この人生を続けることに。
両親の言葉が優しいことも分かっている。心配してくれていることも分かっている。それでも、その優しさに応える力が、もう自分には残っていない気がした。もしかしたらそれは愛情を感じられていないからかもしれない。
彼らの言葉に愛を感じない。
「ごめん……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ただ口から出た謝罪は誰にも届かない。
数日後の夕方。仕事帰り、いつもとは違う道を歩いていた。理由はない。ただ、少し遠回りしたかっただけだ。代わり映えしない人生の中で無意識に刺激を求めた結果なのかもしれない。時折こういう衝動的なことを颯馬はする。
住宅街に差しかかると、前方から複数人の声が聞こえてきた。目をやると女子中学生の集団だった。
学校帰りらしく、制服姿で、肩掛けカバンを揺らしながら歩いている。数人で固まって笑い合い、今日あった出来事を次々に言葉にしている。その光景は、これまで何度も見てきたはずのものだった。
なのに、その日は、足が止まった。
集団の中に、ひとりだけ、不思議と目を引く少女がいた。
特別に整った顔立ちというわけではない。声が一番大きいわけでも、中心で話しているわけでもない。ただ、友達の話に耳を傾け、時折柔らかく笑い、相槌を打つ。その立ち位置は控えめで、それでいて確かにそこにいる。
眩しかった。
理由はすぐに分かった。
彼女は自分が持っていないものを、すべて自然に持っていた。
誰かと一緒に帰ること。
自分の居場所があること。
無理をせず、今の自分で受け入れられていること。
颯馬は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。高揚ではない。焦りでもない。ただ、長い間欠けていた何かを、初めて正面から見たような感覚だった。
――欲しい。
奪うという言葉では足りなかった。
憧れというには、切実すぎた。
ただただ胸が熱い。
その日の夜、颯馬は慎重に調べ始めた。制服、通学路、学校名。SNSや地域の情報を辿り、断片を繋ぎ合わせる。慎重に、慎重に。ネットの深いところまで。まるで壊れやすいものを扱うように。
やがて、名前に辿り着く。
中村理依。
画面に表示されたその文字を、颯馬は何度も見つめた。胸の奥で、何かが静かに決まっていくのを感じる。
「……この人生なら」
自分が消えても、いいと思えた。
いや、消えるのではない。
ここに入りたいと、初めて思えた。
机の引き出しを開け、あの小さなケースを取り出す。
颯馬は、それを両手で包み込み、深く息を吸った。
もう、迷いはなかった。
この少女に憑依する。
中村理依の人生を、生きる。
そう決めた瞬間、胸の奥で長い間忘れていた感情が確かに脈打った。




