第十九話 選択肢の増える場所
中学を卒業してから、春が来るまでの時間は、理依にとって不思議な感覚を伴って過ぎていった。
入試が終わり、結果を待つ期間。
制服を着て通っていた校舎に足を運ぶ日が、少しずつ減っていく。
友達と顔を合わせる回数も、自然と少なくなっていく。
変わるのは環境だけではない。「中学生」という肩書きが、ゆっくりと剥がれていく感覚。
それを寂しいとは思わなかった。むしろ、順序として当然のことのように受け止めていた。
進学先は、その地域では「頭がいい」と言われる高校だった。
特別な進学校というほどではない。
けれど、真面目に勉強すれば、進路の選択肢が広がる。そう評価される場所だった。
理由は、驚くほど単純だった。
試験当日の帰り道、駅へ向かう途中で、理依はもう答えを整理していた。
手応えの有無とは関係なく、進路そのものについての結論は出ていた。
……難しい高校に行ったほうが。
将来の選択肢が、一気に増える。
大学の候補。就職の可能性。途中で方向転換する余地。
まだ、自分が何をしたいのかは分からない。
やりたい仕事も、なりたい大人の姿も、輪郭がない。
だからこそ、「分からないままでいられる場所」を選ぶ。
これは、颯馬の思考が下した判断だった。
感情を排し、条件を並べ、確率を考える。
合理的で、遠回りを避ける選択。
けれど、その判断を「冷たい」と感じなかったのは、理依の感性だった。
……焦らなくていい。
今は、広げておけばいい。
早く決めることだけが、正解じゃない。
時間を味方につける選択も、ちゃんと選択だ。
合格通知を見たとき、胸に込み上げてきたのは歓喜ではなかった。
静かな納得。
「まあ、そうだろうな」という感覚。
できたから、行く。それだけだった。
中学生としての最後の日々が過ぎ、季節は確実に春へ向かっていく。
春。
新しい制服に袖を通す朝。
まだ糊の残る布の感触が、手首に少しだけ硬い。
鏡の前に立つと、自然と視線が止まる。
……変わったな。
肩のライン。
腰の位置。
胸元のわずかなふくらみ。
中学生の頃とは、はっきり違う。
身長だけじゃない。
体つきが、意識しなくても女性へ向かって進んでいる。
戸惑いは、ないわけじゃない。
颯馬だった頃の記憶が、身体感覚の差を正確に指摘する。
――走り方が違う。
――重心が変わっている。
――力の入り方が違う。
細かい違いを、理屈として理解できてしまう。
けれど、それを不快だとは思わなかった。
……私の身体だもん。
理依の感性が、自然にそう受け止める。
違いはあっても、拒否する理由はない。
駅までの道。
同じ制服を着た集団が、あちこちに見える。
みんな少し緊張した顔で、でもどこか浮ついている。
知らない顔ばかり。
これまでの人間関係が、いったんリセットされる場所。
胸の奥が、少しだけ引き締まる。
……新しい生活だ。
高校の校舎に足を踏み入れると、空気が違う。
静かで、張りつめていて、でも冷たくはない。
騒がしさよりも、集中の気配が勝っている。
周囲の生徒たちも、どこか似た匂いを持っていた。
期待と不安を、同じくらい抱えた顔。
自分の可能性を、まだ測りきれていない目。
自己紹介。
席替え。
配られる教科書の山。
そのすべてが、まだ「仮置き」だ。
本当の位置は、これから決まっていく。
……ここから、どうなるんだろう。
問いは浮かぶ。
けれど、答えを急ぐ気はなかった。
授業が始まると、勉強は簡単だった。
少なくとも、立ち止まる場面はない。
颯馬の知識と、思考を整理する癖がそのまま使える。
公式を覚える前に、構造が見える。
問題文を読めば、何を求められているかが分かる。
それは才能というより、経験の転用だった。
……便利だな。
誇らしさはない。
優越感もない。
ただ、使えるものを使っているだけだ。
問題を解きながら、ふと考える。
……頭がいいって。
人と繋がる保証には、ならないんだよね。
それは、颯馬の記憶がはっきりと教えてくれた事実だった。
知識があっても、孤独は埋まらない。
理解できても、理解されるとは限らない。
だから、理依は、意識して顔を上げる。
隣の席の子が、消しゴムを落とす。
拾って、自然に差し出す。
「ありがとう」
「ううん」
それだけのやり取り。
名前も、背景も、まだ知らない。
でも、それでいい。
関係は、積み重ねるものだ。
一気に分かり合う必要はない。
放課後、校舎を出ると、夕方の光が差している。
中学生の頃より、少し遅い時間。
校門の外の景色が、少し大人びて見える。
スカートが、風に揺れる。
足取りが、わずかに軽い。
……まだ、分からない。
将来、何をしたいか。
どんな大人になるか。
具体的な答えは、何もない。
でも。
……分からないまま、生きていい。
そう思えることが、今の自分にとっては一番大きな変化だった。
かつては、分からないことが不安だった。
決められないことが、怖かった。
今は違う。
新しい制服。
変わっていく身体。
増えた選択肢。
それらを抱えたまま、しばらく迷っていてもいい。
新しい生活は、まだ何色にも染まっていない。
理依は、駅へ向かう人波の中で、その白さを、悪くないと思った。
ここから先は、選びながら生きていく。
完璧じゃなくていい。
正解じゃなくてもいい。
選ぶことを、やめなければ。
それだけで、
――今は、十分だと思えた。




