第十八話 日常へ戻る足音
検査入院は、一週間で終わった。
長いようで、短い時間だった。
病院という閉じた場所に身を置いていた感覚が、すでに少し前の出来事のように思える。
日付だけが進んでいたわけではない。
内側で、確かに何かが落ち着き、定まった。
結局、高熱の原因は分からなかった。
感染症の兆候もなく、臓器にも異常はない。
数値はすべて、時間とともに平常へ戻っていった。
医師は、最後まで慎重だった。
不用意に安心させることも、不安を煽ることもしない。
いくつかの可能性を挙げ、検査結果を一つずつ否定していった末、最後に選ばれた言葉はとても曖昧で、しかし現実的だった。
「体調が急激に変化した影響でしょう。しばらくは、無理をしないようにしてください」
理依は、素直に頷いた。
無理をしない。
以前なら、その言葉をどこかで軽く聞き流していたかもしれない。
けれど今は、その意味を具体的に想像できる。
頑張りすぎない、というより、自分を置き去りにしない、という感覚。
退院の日、父と母が迎えに来た。
手続きが終わるのを待つ二人の姿は、この一週間で何度も見たはずなのに今日は少し違って見える。
「……顔色、いいな」
父がそう言って、少しだけ笑う。
安心を隠そうとしない笑顔。
「うん。もう大丈夫」
その返事に、嘘はなかった。
大丈夫、という言葉を、無理なく使えている。
車の中で流れるラジオの音。
知らない曲。
信号待ちの間に流れる、取り留めのないトーク。
そのすべてが、以前よりもはっきりとした輪郭を持って感じられる。
音は音として、景色は景色として、
余計な意味づけをされることなく、そこにある。
……ちゃんと、日常に戻ってる。
戻った、という言葉は正確じゃない。
元の場所に完全に戻ったわけではない。
何かを失い、何かを引き継ぎ、
それでも、日常という流れの中に足を置いている。
家に着くと、玄関の匂いが胸に落ちる。
床の感触。
靴箱の木の匂い。
洗剤の残り香。
「おかえり」
母の声に、自然に返事が出る。
「ただいま」
そのやり取りが、胸を温かくする。
同時に、胸の奥で、静かな痛みが残る。
……これが、理依の日常。
そして、颯馬が欲しかった場所。
夜、布団に入る。
久しぶりの自分の部屋。
天井を見つめながら、理依はゆっくりと内側を確かめる。
違和感は、ない。
二重の思考も、感情の遅れも、もう存在しない。
ただ、一つの意識がある。
考え方は、どこか颯馬に似ている。
物事を構造で捉え、距離を取り、理由を探す癖。
結論を急がず、選択肢を並べる視点。
けれど、行動を決めるのは理依の感性だ。
人を遠ざけない。
関係を、最初から疑わない。
世界を拒まない。
……このバランスで、生きるんだ。
翌日から、学校に戻った。
校門をくぐった瞬間、空気が一気に変わる。
声の密度。
足音の重なり。
笑い声と、呼びかけと、雑音。
「理依!」
後ろから名前を呼ばれる。
振り向くと、クラスメイトが手を振っている。
「もう大丈夫なの?」
「一週間も休んでたから、心配したよ」
「入院してたって聞いてさ、マジでびっくりした」
言葉は次々に飛んでくる。
心配の仕方も、それぞれ違う。
「心配かけてごめん」
理依は、一人一人の顔を見て言った。
「もう平気」
その言葉は、軽くも重くもない。
事実として、きちんと届く。
「顔色いいじゃん」
「前より元気そうじゃない?」
別の友達が笑いながら言う。
「なんかさ、雰囲気変わった?」
「落ち着いたっていうか、大人っぽいっていうか」
「分かる。前はもうちょっとふわっとしてた」
「それ失礼じゃない?」
笑いが起こる。
誰かが突っ込み、誰かがそれに乗る。
理依は、その輪の中に自然にいる。
一歩引いて眺めているわけではない。
「そうかも」
少しだけ考えてから答える。
「入院中、暇だったから考え事してた」
「何それ、哲学?」
「やめてよ、理依が哲学とか言い出したら怖い」
また笑いが起こる。
否定はしない。
説明もしない。
……変わったのは、事実だから。
授業が始まると、変化ははっきりする。
板書を追うのが楽だ。
問題文の構造が、自然に見える。
式の意味が、暗記ではなく流れとして理解できる。
颯馬の知識が、前に出すぎることなく使える。
誇らしさはない。
ただ、便利だと思った。
……これも、引き継いだもの。
昼休みはいつものメンバーだけでなく、別のクラスの友達も混じってくる。
「退院祝いってことでさ」
「コンビニだけど」
「十分すぎる」
お菓子を分け合いながら、
誰かが恋バナを始め、
誰かが部活の愚痴を言い、
誰かがテストの点数で一喜一憂する。
話題はころころ変わる。
理依は、その流れに自然に乗る。
聞くときは聞き、
話すときは話す。
……ここにいる。
放課後、友達と並んで帰る道。
夕方の光。
影が長く伸びる。
「無理すんなよ」
「また倒れたら困るし」
「うん。気をつける」
そのやり取りに、重さはない。
でも、ちゃんと気遣いがある。
胸の奥の棘が、少しだけ疼く。
……でも、大丈夫。
その痛みは、立ち止まらせるためのものじゃない。
前に進くための、傷だ。
家に帰ると、スマートフォンが震えた。
見慣れない番号。
けれど、すぐに分かる。
……あ。
颯馬の両親だ。
画面を見つめて、ほんの一瞬、迷う。
出るか。
出ないか。
颯馬の思考は、慎重に言う。
――今は、無理に関わる必要はない。
理依の感性は、静かに答える。
――でも、拒む理由もない。
理依は、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
その声は、震えていなかった。
日常は、こうして続いていく。
棘を抱えたまま。
選択を重ねながら。
誰かと笑い、
誰かを心配し、
誰かの声を受け取る。
それでも、確かに。
新しい人生は、もう、静かに、しかし確実に歩き始めていた。




