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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第十七話 偶然という名前の再会

 検査入院の三日目だった。


 午前の検査を終えた理依は、病棟の待合スペースに腰を下ろしていた。

身体のだるさはまだ残っているが、意識は冴えている。

検査結果が出揃わないまま時間だけが進む状況にも、奇妙な焦りはなかった。

今はただ、待つという行為そのものに身を預けている。


 白い壁。

角を落とした椅子。

観葉植物の葉が、空調の風にわずかに揺れている。

低く流れる院内放送が、時間の区切りだけを告げては消える。


 人の気配が、静かに行き来している。

誰もが何かを抱え、しかしそれを表に出さずに同じ空間を共有している。


 何気なく視線を巡らせた、その瞬間、目を見開いてしまった。


 考えるより先に、記憶が反応した。

認識が、意味付けよりも速く立ち上がる。


 ……あ!


 少し離れた椅子に並ぶ二人。

背筋を伸ばし、視線を前に向けた父。

手を膝に揃え、静かに待つ母。


 颯馬の両親だった。


 顔は、はっきりと覚えている。

何年という時間が空いても、輪郭だけは薄れなかった。

それは、颯馬の記憶が今も内部に生きている証拠だ。


 同時に、その記憶を「過去」として扱っているのは理依の意識だった。

懐かしさと現実感が、同じ距離で並んでいる。


 ……偶然、だよね。


 心の中の声は柔らかい。

断定を避け、状況をそのまま受け止めようとする響き。


 距離を測るのは理依の感性で、意味を整理するのは颯馬の思考。


 二つは、衝突しない。

むしろ、互いを補い合うように自然に配置されている。


 足が、自然に前へ出た。


 自分で決めた、という実感はある。

けれど、無理に背中を押した感覚はない。

選択が、すでに自分の中で静かに成立していた。


「すみません。……もしよかったら、少しお話ししてもいいですか?」


 声は穏やかで、押し付けがましさはない。

断られる可能性も含めて、相手に委ねる言い方。


 二人が顔を上げる。

驚きは一瞬だけで、すぐに自然な表情に戻る。


「ええ、大丈夫ですよ」


 父が答え、母が小さく頷く。


 理依は椅子を引き、少し距離を保った位置に座る。

近づきすぎない。

けれど、遠すぎない。


「同じ病棟で入院していて。検査入院なんです。原因は、まだ分からなくて」


母が、ゆっくりと頷く。


「そう……大変ですね」


 その言葉には、形式的な同情以上の温度があった。

押し付けでも、慰めでもない。

ただ、事実を受け取った反応。


 当たり障りのない会話が続く。

検査の待ち時間。

病院の混み具合。

今日の午前中は待ち時間が長かった、という程度の話。


 そのどれもが、意味を持たないはずなのに、空気は少しずつ変わっていく。


 父の視線が、理依の顔にほんの少し長く留まる。

母も、言葉と言葉の間に、わずかな沈黙を挟むようになる。


 探しているわけではない。

けれど、何かが引っかかっている。


 ……今、少しだけ。


 理依は気づく。

二人の中で、言葉にならない感覚が揺れている。


 父が、ぽつりと口を開いた。


「……うちの息子もね」


 母が、自然に続きを受け取る。


「静かな子だったの。あまり、自分のことは話さなくて」


 理依は、黙って頷く。

促さない。

止めもしない。


 ……聞いてていい。


 理依の感性が、そう判断する。

これは踏み込む場面ではなく、受け取る場面だ。


「頭は良かったんですけど」


 父が、少し困ったように笑う。


「それを、どう使えばいいのか分からなかったみたいで」


 母が、微かに笑う。


「でも、連絡はくれてたの。忙しいって言いながらも、ちゃんと」


 胸の奥で、静かに何かが鳴る。


 颯馬の記憶が、その言葉を反芻する。

けれど、昔の颯馬なら、ここで別の解釈をしていた。


 ――義務だからだ。

 ――形式的な連絡だ。

 ――本心じゃない。


 孤独によって、心は長い時間をかけて摩耗していた。

人を信じる力が、少しずつ削られていく。

期待して、裏切られるくらいなら、最初から信じないほうがいい。


 だから、両親の優しい言葉も、気遣いも、

――その裏にある感情を、信じ切れなかった。


 信じ切れなかったからこそ、「愛されていない」という結論に辿り着いてしまった。


 けれど、今。

理依の感性が、先に理解する。


 ……違う。


 言葉の選び方。

視線の柔らかさ。

思い出す時の、声の温度。


 それは、失われた存在を語る人間のそれだ。


 そして、颯馬の思考が、それを否定せずに受け取る。


 ――論理的に見ても、矛盾はない。

 ――この態度は、関心の欠如では成立しない。


 理解と結論が、同じ地点に着地する。


 愛されていなかったのではない。

自分が信じ切れなかっただけだ。


 母が、ふと理依を見て言う。


「あなたと話してると……不思議ね」


 一拍、間を置いてから続ける。


「落ち着くの。まるで、息子と話してるみたい」


 その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で、何かが深く、鈍く刺さる。


 理解してしまったからこそ、痛みは明確だった。


 ……知ってしまった。

 ……今さら。


 もし、これが分かる前だったなら。

もし、颯馬のままだったなら。


 違う選択も、あったかもしれない。


 でも、もう遅い。


 打ち明けることはできない。

真実を話すことも、戻ることも、できない。


 自分が選んだ道が、誰かの優しさを、別の形で受け取る道だったとしても。


 看護師が二人を呼びに来る。

検診の時間だった。


 父が立ち上がり、ふと足を止める。


「……もし、差し支えなければ」


 言葉を選ぶ視線。


「連絡先、交換してもいいですか」


 胸の奥で、二つの反応が走る。


 ――危険だ。

颯馬の思考が、即座に判断する。


 ――でも。

理依の感性が、静かに言う。


 ……選ぶしかない。


 理依は、一拍だけ間を置いた。

逃げるためではない。

覚悟を固めるためでもない。


 結果を引き受けるための間。


「……はい」


 スマートフォンを取り出す。番号を入力する。送信する。


 簡単な動作。

あまりにも、簡単な行為。


 その瞬間、棘が、さらに深く刺さる。


 理解した後悔。

知ってしまった後の選択。


 それが、自分の心に残る傷だ。


 父が安堵したように息を吐き、母がほっと微笑む。


「ありがとう」


 理依は、ただ頷いた。


 救われたわけではない。

代わりになったわけでもない。


 それでも、関係を持つと決めた。


 二人が去ったあと、理依はその場に残る。


 ……棘、深くなっちゃった。


 責めるでもなく、慰めるでもなく、

事実として確認する。


 でも。

 逃げなかった。


 理依の感性で世界を感じ、颯馬の思考で理解し、二つの時間を抱えたまま、生きていく。


 待合室の白い光の中で、理依は深く息を吸った。


 連絡先の数字は、画面の中で静かに並んでいる。


 それは救いではない。

罰でもない。


選び続けるために、理解した後悔を抱え続けるための、

――より深く刺さった棘だった。

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