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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第十五話 一つになるまで

 白い。

視界という概念そのものが、溶剤に浸された紙のようににじんでいく。


 音が遠い。

いや、遠いというより、距離という尺度が意味を失っている。

近くも遠くもなく、ただ「ある」だけの振動が、鼓膜の奥を撫でては消える。


 身体の感覚が、輪郭を失っていく。

重さも、軽さもない。

手足の位置が分からない。

呼吸しているのかどうかさえ、判断できない。


 ……生きてる?


 問いは浮かぶ。

けれど、それに付随する不安や期待が、まだ形を結ばない。

問いだけが、真空に放り出されたように宙に残る。


 答えは返らない。


 代わりに、二つの鼓動が重なって聞こえた。


 一つは、慣れ親しんだ鼓動。

幼い頃から、この身体と一緒にあったもの。


 転んで泣いた日も、

誰かに名前を呼ばれて胸が温かくなった日も、

眠れない夜に布団の中で数え続けた規則正しいリズム。


 それが、自分の生であると疑ったことはなかった。


 もう一つは、遅れて響く、別のリズム。


 わずかに硬く、

 わずかに慎重で、

 鼓動そのものが周囲の様子を伺っているような、不自然な間を持っている。


 ……いる。


 理依は、ぼんやりと理解する。

理解というより、拒否できない事実として、胸に落ちる。


 颯馬も、同じ場所にいる。


「同じ」という言葉が、ひどく曖昧で、それでも他に表現のしようがない状態。


 境界は、もう見えなかった。

内側と外側、私とあなた、

そうした区別を支えていた線が、溶け落ちている。


 線を引こうとしても、指先が溶けていく。

触れている感触だけが残り、それが自分なのか、他人なのか、判断できない。


 記憶が、順番を失って流れ始める。


 映像ではない。

感情と体温と、時間の感触が絡まり合った奔流。


 理依の幼い頃。


 初めて友達ができた日。

教室の隅で、一人で本を読んでいた時、「それ、面白い?」と声をかけられた瞬間。


 名前を呼ばれて、振り返った時の胸の奥がふわりと浮く感覚。


 自分が、世界に認識されたという確信。


 次に、颯馬の人生。


 静かな部屋。

夜でも昼でも変わらない蛍光灯の白。


 誰にも見られない努力。

褒められる前提すら持たずただ「間違っていないはずだ」と自分に言い聞かせながら積み上げた時間。


 認められなかった成果。

提出した書類。

送ったメッセージ。

返ってこなかった返事。


 評価されないことよりも「最初から見られていなかった」事実が、胸の奥を静かに削り続ける感覚。


 それらは、もはや「他人の記憶」ではなかった。


 理依の胸にも、同じ圧がかかる。

颯馬の孤独が異物としてではなく、自分の内側の痛みとして等しい重さで沈む。


 ……苦しかったね。


 その言葉が、誰のものなのか分からない。

慰めなのか、確認なのか、

それとも、罪の所在を曖昧にするための逃げなのか。


 返ってきたのは、言葉ではなく、感情だった。


 ――ああ。


 短く、疲れきった肯定。


 そこには、救われたいという願いも、

理解されたいという期待もない。

 

 ただ、「そうだ」と認めることしかできない重さ。


 二つの魂は、争うようには重ならなかった。


 支配も、抵抗もない。

どちらかが主で、どちらかが従という構図すら成立しない。


 ただ、ゆっくりと、不可逆に溶け合っていく。


 その過程で颯馬の意識に、はっきりとした感情が浮かび上がる。


 罪悪感。


 それは、突然現れたものではない。

最初から、ここに来るまでずっと、

彼の行動の底に沈んでいたもの。


「自分は、選んだ」

「逃げたのではないか」

「奪ったのではないか」


 理依の未来。

 理依の身体。

 理依の名前を呼ばれる権利。


 それらに、自分は触れていい存在だったのか。


 理依の感性が、中心になる。


 人と繋がることを怖れない心。

 日常の温度を疑わない力。

 誰かの存在を、条件なしに受け取る感覚。


 それが、自然と行動原理になっていく。


 けれど、その中心に近づくほど、

颯馬の罪悪感は、薄まるどころか、輪郭を得ていく。


「自分は、ここにいてしまっている」

「理依が生きていたはずの時間を、自分は使っている」


 呼吸一つ。

 心拍一つ。


 その一つ一つが、借り物であるという感覚。


 颯馬は消えなかった。


 合理的な思考。

 物事を構造で捉える視点。

 世界を俯瞰し、距離を測る知性。


 そして――胸の奥に残る、一本の棘。


 それは抜けない。

抜いてはいけないと、理解している。


「自分は奪ったのではないか」

「許可なく、入り込んだのではないか」

「それでも、生き続けていいのか」


 その問いは、融合が進むほど、より鮮明に、より逃げ場なく、胸を刺す。


 ……それでも。


 理依の感性が、その棘を包む。


 否定しない。

 正当化もしない。


 忘れなくていい。

 痛いままでいい。

 これは、あなたが生きた証で、あなたが背負うと決めた重さだから。


 その瞬間、棘は痛みを失う。

刺さったままでも、血を流さなくなる。


 罪が消えたわけではない。

ただ、それが意味を持ち続ける形に変わった。


 二つの魂は、完全に重なった。


 理依でも、颯馬でもない。

けれど、どちらも欠けていない。


 意識が、一本の線になる。


 目を閉じていても、

世界が、ひとつの視点で感じられる。


 ……私は。


 名前を探す。


 理依。颯馬。


 どちらでもあり、どちらでもない。


 けれど、答えは自然に浮かんだ。


 ――私は、ここにいる。


 その「いる」という事実に、許しも救いも含まれていない。


 ただ生き続ける責任だけがある。


 感性は、理依のもの。

世界を見る温度も、彼女のまま。


 でも、選択の裏には、

颯馬が生き抜いてきた思考と、消えない棘と、償いきれないという自覚が静かに根を張っている。


 それでいい。

 それがいい。


 遠くで、誰かが名前を呼んでいる。


「……理依」


 その呼びかけに違和感はない。

同時に、安堵もない。


 意識は、ゆっくりと浮上する。


 白い天井。

規則的な機械音。

握られている、温かい手。


 生きている。


 一つの人格として。


 この融合は、救いではない。

贖罪でもない。


選び、奪い、背負った結果として、

ただ続いていくという事実。


 二つの人生が、

ここで、同時に、終わらずにいるという現実。


 そしてそれは、誰にも奪われず、誰にも返されることのない――重さを伴ったまま始まる新しい人生だった。

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