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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第十四話 崩れる境界

 その日は、朝からおかしかった。

――そう表現するには、あまりにも足りないほどに。


 理依は目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのかを理解するまでに、ほんの数秒を要した。

それは長い時間ではない。けれど、これまでの彼女にとって、その数秒は存在しなかった空白だった。


 天井。

 カーテン。

 自分の部屋。


 すべて、見慣れている。間違いなく、自分の生活の延長線上にあるはずの景色。

なのに、それらが「配置」として頭に収まらない。遠近感が狂っているような、夢の中で現実を見ているような感覚。


 ……起きなきゃ。


 そう思ったのは、確かに理依だった。

学校がある。制服を着なければならない。朝食を食べて、家を出る。その流れは、何度も繰り返してきたものだ。


 けれど、その次の瞬間。

身体を起こすという判断を下したのが、誰だったのかが分からない。


 意識が命令を出す前に、身体が反応したような感覚。

あるいは、二つの意識が同時に「起きる」と判断したのかもしれない。


 その曖昧さが、理依の胸に静かな不安を落とした。


 朝食の席で、母が何度も理依の顔を覗き込む。

箸を持つ手が止まり、味噌汁の湯気が揺れる。


「……理依、本当に大丈夫?」


 声は柔らかい。けれどその奥に、隠しきれない緊張がある。


「顔色、昨日より悪いわよ」


 父も新聞を畳み、テーブルに置いた。

その動作が、いつもよりゆっくりで、慎重だった。


「学校、休むか?」


 その一言に、理依の胸が揺れた。


 ……心配、されてる。


 それは、理依にとって当たり前の日常だった。

具合が悪ければ気づかれ、無理をしていれば声をかけられる。特別なことではない。


 けれど、胸の奥で、その光景を見つめる別の意識が、強く反応する。


 ――こんなふうに、見られたことはなかった。


 その感情は、理依のものではない。

けれど、理依の心臓を、確かに打った。


 ……違う。


 理依は、はっきりと首を振った。


「行く……大丈夫」


 声は、ちゃんと出た。

だがその響きがいつもより低く落ち着きすぎていることに、母が眉をひそめる。


「……無理してない?」


 母の手が、理依の額に触れる。


「熱は……ない?」


 その瞬間。

胸の奥が、強く波打った。


 触れられた温もり。

心配する指先。

それらが、境界を越えて、二つの意識を同時に刺激する。


 ……やめて。


 ……離れないで。


 相反する感情が、一気に溢れ出す。

拒絶と渇望が、同じ場所で衝突する。


 父が立ち上がり、母と視線を交わす。

言葉はなくても、二人とも「異常」を感じ取っていた。


「今日は、迎えに行くから」


「何かあったら、すぐ連絡しなさい」


 理依は頷く。

その仕草が、年相応ではないほど、妙に落ち着いて見えた。


 学校に着いてから、境界はさらに脆くなった。


 授業中、黒板の文字が二重に見える。

視覚が歪んでいるわけではない。理解が、先に走りすぎている。


 数式の意味。

文章の構造。

教師の次の言葉。


 すべてが、異様なほど速く、頭の中に並ぶ。


 ……分かるのに。

 ……楽しくない。


 理解はある。

だが、感情が追いつかない。


 友達に話しかけられても、返事が遅れる。

言葉を選ぶ前に、評価が走る。


 ――今は、こう返すのが無難。

 ――この話題は広げなくていい。


 ……違う。


 理依は、心の中で必死に否定する。

これは、自分の考え方じゃない。こんなふうに、人を測るように返事をしたくない。


 昼休み。

保健室へ行くかどうか迷っていると、急に視界が揺れた。


 床が、遠のく。


 ……あ。


 次の瞬間、膝から力が抜けた。


「理依!?」


 誰かの声。

腕を掴まれる感触。


 意識が、途切れかける。


 その中で、理依は、はっきりと拒絶した。


 ……まだ。

 ……私の人生だよ。


 その叫びは、言葉ではなかった。

けれど、胸の奥に確かな形を持って響いた。


 颯馬は、その抵抗を痛いほど理解していた。


 理依の感性が、自分の中に自分の一部として存在している。だからこそこの拒絶が正しいと分かってしまう。そして自分がしてしまったことは本当にしてはいけなかったことも分かっている。


 ……ごめん。


 謝罪が、遅すぎたことも。

どれだけ取り返しのつかないところまで来てしまったかも。


 それでも、境界はもう保てなかった。


 帰宅途中、父と母が迎えに来た。いつ連絡したのか、誰が連絡したのか、もうよくわからない。

車の後部座席で、理依はぐったりと身体を預ける。


 母は何度も名前を呼び、父はミラー越しに様子を確認する。


「病院、行こう」


 その声には、迷いがなかった。それでも必要なものを取りに一度家に車が戻ったのを感じた。


 家に着く前、理依の身体は、はっきりと異変を示し始める。


 悪寒。

 震え。

 そして、焼けるような熱。


「……熱い……」


 母が額に触れ、息を呑む。


「……お父さん」


「すごい熱だ」


 父はすぐに電話を取る。

救急車を呼ぶ声が、わずかに震えている。


「理依、聞こえるか?」


 父の声。

必死に、落ち着こうとしている声。


 母は、理依の手を、強く握っている。


「大丈夫だから。ちゃんと、いるから」


 その言葉が、胸に深く刺さる。


 ……こんなふうに。

 ……心配、されて。


 颯馬の中で、強い感情が弾けた。


 ――こんな日常を、俺は、欲しがっていた。


 温度。

 声。

 存在を気にかけられること。


 でも、それは――

誰かから奪っていいものじゃなかった。


 二人の意識が、薄れていく。


 サイレンの音。

担架の揺れ。

救急病棟の、白い光。


 父と母の顔が、歪む。


「お願いします……」


 母の声は、今までで一番、必死だった。


 父は何も言わず、ただ強く祈るように見つめている。


 理依は、その光景を、はっきりと胸に刻んだ。


 ……だから。

 ……私は。


 言葉は、もう形にならない。


 境界が、完全に溶け始める。


 理依の人生を守ろうとする力と、戻る場所を失い逃げ場をなくした颯馬の生きたいという気持ちが。

最後に、真正面からぶつかり合う。


 高熱は、その反動だった。

二つの魂が、無理に重なろうとした歪み。


 そして、救急病棟の白い天井の下で。

最後の融合が、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。


 父と母の不安に満ちた視線だけがこの身体を、かろうじて現実へと繋ぎとめていた。

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