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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第十三話 喪失

 朝の支度を終え、理依はリビングのソファに腰を下ろした。

テレビは、いつものように流しっぱなしだった。天気予報、交通情報、株価の数字。音としては耳に入っているけれど、意味としてはほとんど受け取っていない。そういう距離感で、日々のニュースを眺めることに、いつの間にか慣れていた。


 画面が切り替わる。

キャスターの声の調子が、ほんのわずかに低くなる。


「続いてのニュースです。昨日、◯◯市の集合住宅で、男性が室内で死亡しているのが発見されました。死後数日が経過していたとみられ、警察は――」


 理依は、最初は聞き流していた。

事故でも事件でもない。そういうニュースは、毎日のように流れる。


 けれど、次の言葉に、身体が反応した。


「――いわゆる、孤独死と見られています」


 孤独。


 その単語が耳に触れた瞬間、理依の意識が、強く引き戻された。

胸の奥が、ひくりと動く。自分のものではない反応が、確かに混じっていた。


 ……また。


 理依は、無意識にテレビの方へ顔を向けた。

画面に映し出されたのは、古い集合住宅の外観だった。色あせた壁、規則的に並ぶベランダ、周囲に目立った特徴のない住宅街。


 その瞬間、息が止まる。


 見覚えが、あった。


 理由は分からない。

行ったことがあるわけでも、写真で見た覚えがあるわけでもない。なのに、その景色が「知っている場所」として、はっきりと胸に落ちてきた。


 ……なんで。


 心臓の鼓動が、急に早くなる。

胸の奥で、ざわつく気配が強くなる。


 キャスターが、淡々と続ける。


「亡くなったのは、この部屋に一人で暮らしていた会社員の――」


 名前が、読み上げられた。


「――薮下颯馬さん、二十代後半の男性です」


 その瞬間。


 世界が、ひっくり返った。


 音が遠のき、視界が歪む。理依は、自分が立っているのか、座っているのかも分からなくなった。床が抜けたような感覚。胸の奥が、冷たく、重く沈む。


 ……え。


 名前を、理解する前に、感覚が先に襲ってきた。


 ――終わった。

 ――戻れない。

 ――もう、どこにも行けない。


 それは理依の感情ではなかった。

だが、理依の身体を、確かに貫いていた。


 呼吸が、うまくできない。

喉が締まり、空気が入ってこない。


「理依?」


 母親の声が、遠くで聞こえる。

けれど、その声に反応する余裕がない。


 ……死んだ。


 頭の中で、はっきりとその言葉が浮かんだ。


 薮下颯馬が、死んだ。


 それは情報として知ったというより、「自分が死んだ」と感じた感覚に、限りなく近かった。


 魂の一部が、確かに重なっている。

その重なりがあるからこそ、理依は理解してしまった。


 彼の人生は、もう続かない。

選択肢は、消えた。


「理依、大丈夫!?」


 母親が駆け寄ってくる。

肩を掴まれ、身体を揺すられる。


「顔色が……どうしたの?」


「……息、してる?」


 声が重なり、世界が騒がしくなる。


 理依は、ようやく息を吸った。

肺に空気が入り、激しく咳き込む。


「……だい、じょうぶ……」


 声は震えていた。

大丈夫では、なかった。


 父親も近づいてくる。


「急にどうした。テレビ、何かあったのか?」


「……ニュース……」


 理依は、画面を指さそうとして、手が震えるのに気づいた。

指先が、冷たい。


「気分悪いなら、学校休め」


「病院、行こうか?」


 心配の言葉が、重なる。

そのすべてが、現実の音として届いているのに、どこか膜越しだった。


 理依は、ゆっくりと首を振った。


「……少し、横になる」


 それだけ言って、立ち上がる。

足元がふらつき、母親に支えられながら、部屋に戻った。


 ベッドに腰を下ろした瞬間、胸の奥から強烈な感情が溢れ出した。


 喪失。


 それも、自分のものではないはずの喪失。


 ……もう、戻れない。


 その思いが、はっきりと浮かぶ。


 ――今なら、まだ戻れるかもしれない。

そう考えていた颯馬の思考が、途中で、ぶつりと断ち切られている。


 理依は、目を閉じた。


 胸の奥で、颯馬の意識が、激しく揺れているのが分かる。


 薮下颯馬は、理解していた。


 もう、自分の居場所はない。

身体は、冷たい部屋の中で、ただの物になった。


 戻るという選択肢は、消えた。

やり直す可能性も、売人に連絡する余地も、すべて。


 ……終わった。


 その思念は、かつての颯馬なら、淡々と受け入れていただろう。

死は合理的な結果だと、どこかで割り切っていたかもしれない。


 だが今は、違う。


 理依の感性が、颯馬の内側にある。


 失ったことの意味を、「惜しい」「戻りたい」「怖い」という感情として、理解してしまう。


 ――俺は、消えた。


 その事実が、ただの結論ではなく、痛みとして迫ってくる。


 ……嫌だ。


 その感情が浮かんだことに、颯馬自身が驚いた。


 生きたいと思っていなかったはずだ。

消えたいと、何度も思ってきたはずだ。


 それなのに、

いざ「消えた」と突きつけられると、

胸の奥が、ひどく痛む。


 理依の人生を、欲しいと思った。

理依の眩しさに、救われたいと思った。


 だが今、それは「逃げ場」ではなくなった。


 自分の人生は、完全に終わった。

理依の人生を奪わなければ、もう存在できない。


 その事実が、重く、のしかかる。


 ……俺は。


 颯馬の意識が、理依の内側で、沈み込む。


 罪悪感。

 焦り。

 そして、強烈な恐怖。


 理依は、その感情を、否応なく受け取っていた。


「……そっか」


 声に出して、そう呟いた。

誰に向けた言葉かは、分からない。


 ニュースは、もう次の話題に移っている。

世界は、何事もなかったかのように進んでいく。


 だが理依と颯馬にとって、この瞬間は決定的だった。


 一人は、他人の死を知った。

もう一人は、自分の死を突きつけられた。


 そして二人は、同じ身体の中で同じ喪失を、同時に味わっていた。


 逃げ道は、もうない。


 それでも理依はまだ、生きている。


 颯馬は、もう戻れない。


 その非対称な現実が、二人の関係をさらに深く歪ませていくことを理依ははっきりと感じ取っていた。

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