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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第十二話 迷いと本当の気持ち

理依の感情が静まったあと、藪下颯馬の意識だけが、ゆっくりと浮上してきた。


眠りでも覚醒でもない。

境界の内側。

理依の魂に触れながら、しかし完全には重ならない場所。


そこは相変わらず、輪郭の曖昧な空間だった。

色も形も定まらず、ただ「思考だけが存在できる場所」。かつては何も感じなかったはずのその場所が、今はひどく息苦しい。


――悲しいことだよ。


理依の感情が、まだ残響のように漂っている。


その言葉が、颯馬の中で何度も反芻された。

理屈ではない。責めでもない。

ただ、否定しきれない重さを持っていた。


(……悲しい、か)


自分を嫌い続けてきた。

それは事実だった。


嫌いというより、不要だと思っていた。

藪下颯馬という人間は、存在しなくても誰も困らない。いなくなっても、世界は何も失わない。そう結論づけることが、あまりにも自然だった。


思い返せば、人生はずっと同じ調子だった。


学校では、目立たない。

だが、無能でもない。


仕事では、評価される。

だが、必要とされている感覚はない。


人と関わることはできる。

だが、繋がることはできない。


何かが足りないのではなかった。

最初から、何もなかった。


だから颯馬は、感情を削ぎ落とした。

期待しなければ、傷つかない。

求めなければ、失望しない。


合理的であることは、防具だった。


その防具の内側で、颯馬は静かに消耗していった。

消えてもいい。消えたい。

そう思うことすら、思考の一部として処理してきた。


――それが、悲しいことだ。


理依の言葉は、そこに初めて穴を開けた。


(……そんなふうに、考えたことなかった)


悲しいかどうかなんて、考える必要がなかった。

自分の感情を評価する視点自体が、存在していなかったからだ。


だが今は違う。


理依の感性が、颯馬の中にある。

感情を「感じてしまう回路」が、確かに存在している。


自分を否定する思考が浮かぶたび、その裏側に、痛みが生まれる。

以前はなかった感覚だった。


――俺は、嫌われて当然だと思ってた。


その思念が、理依に伝わったとき、颯馬は自分でも驚くほど弱っていた。

あれは理屈ではなかった。

ただ、ずっと胸の底に沈めてきた本音だった。


そして今、もう一つ、理解してしまったことがある。


理依は、自分の人生を奪われたくない。


当たり前だ。

誰だってそうだ。


だが、颯馬はこれまで、その「当たり前」を直視しないようにしてきた。

理依になることばかりを考えていた。

理依の人生を、自分の空白に流し込むことばかりを。


それが、理依にとって何を意味するのか。

それを奪われるということが、どれほど恐ろしいことなのか。


理依の魂と、ほんの一部が融合した今なら、分かる。


理依は、必死に生きてきたわけではない。

ただ、生きていただけだ。

笑って、迷って、悩んで、選んで。


その「ただ生きている」という状態が、どれほど尊いかを、颯馬は今さら知ってしまった。


(……俺は)


何をすればいい。


このまま、理依になろうとし続けるのか。

それとも、身を引くのか。


選択肢は、まだある。


あの売人。

深いネットの連絡先。

消していない。


今なら、まだ戻れるかもしれない。

完全に融合する前なら、元の身体に戻って、やり直せる可能性がある。


――やり直す?


その言葉に、颯馬は苦笑した。


戻ったところで、何が変わる。

また同じ人生が待っているだけだ。

孤独で、誰にも繋がれず、空気のように生きる日々。


それを「やり直し」と呼べるのか。


(……でも)


理依の人生は、眩しい。


何度もそう思った。

そして、その思いは、今も消えていない。


理依の感性を手に入れたことで、颯馬は初めて「欲しい」という感情を、正確な形で持ってしまった。


理依の人生が欲しい。

理依の居場所が欲しい。

理依として、世界に存在したい。


それは、自己否定から逃げるためだけの欲望ではなくなっていた。


同時に、その欲望が、どれほど身勝手かも分かっている。


理依を押し潰して、自分が生き延びる。

それは、救いではない。


(……どうすればいい)


思考は堂々巡りを続ける。


自分は、まだ嫌いだ。

藪下颯馬という人間を、肯定できない。


だが、その「嫌い」が、悲しくて、苦しいことだと、気づいてしまった。


以前なら、苦しさを切り捨てていただろう。

無駄だと判断し、感情を閉じただろう。


今は、できない。


理依の感性が、それを許さない。


苦しい。

矛盾している。

欲しいものが、二つある。


――消えたい自分。

――生きたい自分。


その両方が、同時に存在している。


颯馬は、静かに思った。


(……俺は、選ばなきゃいけない)


理依になる道。

それとも、元に戻る道。


あるいは、そのどちらでもない、第三の何か。


だが、それが何なのかは、まだ見えない。


ただ一つ確かなのは、

もう以前のように、何も感じずに進むことはできないということだった。


理依の魂は、すぐそこにある。

拒絶されている。

だが、完全には断たれていない。


その距離感が、颯馬を苦しめ、同時に救ってもいる。


(……もう、戻れないな)


元の自分には。


合理性だけで、感情を削ぎ落として生きていた頃には。


颯馬は、深く、深く、考え続ける。


理依を傷つけずに、

自分も消えずに、

生きる方法があるのかどうか。


その答えは、まだ見つからない。


だが、苦しみながら考えるという行為そのものが、

すでに、藪下颯馬という人間が

「生きようとしている」証拠なのだと――

颯馬自身だけが、まだ気づいていなかった。

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