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中村理依を、私は奪った。  作者: 破月
第一章 眩しい人生
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第十一話 自己否定の先に

 朝は、何事もなかったかのように訪れた。


 カーテンの隙間から差し込む光は、昨日までと同じ角度で床を照らしている。鳥の声が聞こえ、遠くで車が走る音がした。世界は平然としていて、何一つ変わっていないように見えた。


 けれど理依は、目を開けた瞬間にはっきりと分かっていた。

もう、自分の内側は昨日までの状態ではない。


 胸の奥に、確かな存在感がある。

藪下颯馬。

その名前を思い浮かべると、すぐに微かな反応が返ってくる。声ではない。言葉でもない。ただ、感情の輪郭が揺れる。


 ――また、見ている。


 理依はそう感じた。

颯馬が、自分の中からこちらを覗いている。理依の感覚を、思考を、記憶を、静かに確かめるように。


 その「視線」は、以前よりもはっきりしていた。

そして同時に、理依はもう一つの事実に気づき始めていた。


 颯馬は、理依になろうとしている。

ただ身体を使うとか、記憶を共有するとか、そういう表面的な話ではない。もっと深いところで、理依という存在を「上書き先」として選び、自分を消そうとしている。


 それ自体は、もう分かっていた。

だが、今朝、理依の胸に浮かんだ感情は、それとは少し違っていた。


 ――この人、苦しんでいる。


 そう感じた瞬間、胸の奥が締めつけられた。


 理依は、夢の中で触れた颯馬の記憶を思い返す。

誰とも繋がれない日々。

空気に溶けるような生活。

能力があっても、評価されても、それが「誰かとの関係」には決して変わらなかった人生。


 そして今、理依の中に入り込んでくるときの颯馬の感情。

それは、単なる羨望や執着だけではなかった。


 颯馬は、自分を否定している。


 それも、徹底的に。


 理依の記憶に触れるたび、颯馬は自分との差を見ている。

自分にはなかったもの。

当たり前に与えられていた会話。

無意識に築かれていた人との繋がり。


 そのたびに、颯馬の内側で何かが壊れていくのを、理依は感じ取っていた。


 ――俺なんて、いらない。

 ――藪下颯馬なんて、価値がない。

 ――消えてしまえ。


 その感情が、直接言葉になることはない。

けれど、理依の感性を通して伝わってくる。


 そして、その自己否定が極まったとき、

颯馬は、快感に近いものを覚えている。


 それに気づいた瞬間、理依は息を呑んだ。


 自分を否定することで、解放されている。

自分という存在を削り、壊し、塗り替えることで、楽になっている。


 ――だから。


 だから、理依になることが、救いに見えるのだ。


 嫌いで、憎くて、どうしようもない自分を消して、

代わりに、眩しい誰かとして生きる。


 それは、あまりにも悲しい選択だった。


 理依は、布団の中でぎゅっと拳を握った。


 ……それは、いけない。


 感情が、自然と言葉の形を取る。

声に出していないのに、その思いは確かに外へ向かっていた。


 そんなふうに、自分を消して楽になるのは……違う。


 胸の奥で、揺れが返ってくる。

戸惑い。

そして、微かな抵抗。


 颯馬は、否定されることに慣れていた。

自分自身からも、他人からも。


 だから最初、理依の感情を「拒絶」だと受け取ったのだろう。

けれど、そこには以前とは違う温度があった。


 理依は、はっきりと拒んでいる。

それでも同時に、理解してしまったからこそ、目を逸らせなかった。


 あなたがどれだけ嫌いだったか、分かる。

 自分を見たくなくなるくらい、苦しかったのも。


 言葉にならない思いが、ゆっくりと流れる。


 でもね。

 自分を否定し続けるのは……とても、悲しいことだよ。


 その感情が届いた瞬間、

颯馬の内側で、何かがひっかかった。


 これまでの颯馬なら、ここで切り捨てていたはずだった。

感情は無駄だ。

理解されなくていい。

自分を否定することは、当然だ。


 だが今は、違った。


 理依の感性が、颯馬の中に流れ込んでいる。

誰かに向けて言葉を選ぶ感覚。

相手の感情を傷つけないように考える思考。


 それが、颯馬の反応を変えていた。


 ――……悲しい、か。


 その思念は、以前よりもずっと人間的だった。

切れ味のある断定ではない。

疑問を含んだ、弱い揺らぎ。


 理依は、その変化を感じ取って、胸が痛くなった。


 そうだよ。

 悲しい。

 自分を消したくなるほど、自分を嫌いになるなんて。


 一瞬、強い感情が流れ込んでくる。

怒りではない。

絶望でもない。


 混乱だった。


 颯馬は、理依の言葉を、初めて「拒絶」以外の形で受け取っていた。

否定されているのに、責められていない。

受け入れられていないのに、切り捨てられてもいない。


 ――……俺は、どうすればいい。


 その思念は、はっきりとした問いだった。


 理依は、答えに詰まった。


 解決策など、分からない。

颯馬を救う方法も、共存の形も、何一つ確信を持って言えない。


 それでも、理依は伝えた。


 少なくとも。

 あなたが消えることで、楽になるのは……違う。

 私は、あなたになりたいわけじゃない。

 でも、あなたが全部なくなっていいとも思わない。


 その感情は、理依自身をも戸惑わせた。

拒絶している。

はっきりと、境界を守っている。


 それでも、完全には突き放していない。


 颯馬の側にも、変化があった。


 ――……俺は、嫌われて当然だと思ってた。


 理依は、その言葉に息を止めた。


 それは、初めて聞く「自己評価」だった。

合理性でも、計算でもない。

ただの、傷ついた人間の声。


 ……そう思うくらい、辛かったんだね。


 その返答は、理依の感性そのものだった。

以前の颯馬なら、そんな言葉を「無意味」だと切り捨てただろう。


 今は、違う。


 颯馬は、その感情を、拒まなかった。


 拒まなかったからこそ、苦しかった。


 二つの意識が、同じ場所にある。

一方は、人生を守ろうとしている。

もう一方は、人生を捨ててでも救われたかった。


 その衝突は、静かで、深い。


 理依は、はっきりと感じていた。


 自分はまだ、颯馬を受け入れていない。

この身体も、人生も、渡すつもりはない。


 それでも、理解してしまったからこそ、諭さずにはいられなかった。


 あなたは、消えなくていい。

 消えたいほど、嫌いになった自分を……そのまま消すのは、悲しい。


 その言葉は、命令でも正論でもなかった。

ただの、願いだった。


 胸の奥で、颯馬の意識が、静かに揺れる。


 ――……分からない。


 その返答は、弱く、曖昧で、

だからこそ、確かに「人間」だった。


 夜は、まだ続いている。

そして朝は、またやってくる。


 二つの意識は、同じ身体の中で、

これからもぶつかり、揺れ続けるだろう。


 けれど少なくとも今、

そこには「否定」だけではないやり取りが、

確かに生まれていた。

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