第十話 眩しさの正体
夜が、深く沈んだころだった。
理依は、眠りに落ちたという感覚をほとんど持たないまま、夢の中に立っていた。
いつもの夢と違う、とすぐに分かった。輪郭がはっきりしすぎている。色も、音も、温度も、現実に近い。
それでいて、これは自分の記憶ではなかった。
最初に見えたのは、白い天井だった。理依の部屋よりも高く、無機質で、感情の入り込む余地のない空間。照明は点いているのに、どこか薄暗い。
……ここ、どこ。
そう思った瞬間、視点がわずかに揺れる。
立ち上がろうとして、身体が動く。けれど、その身体は、理依のものではなかった。
手が、少し大きい。
指が長く、関節がはっきりしている。
鏡はない。だが、理依は直感的に理解した。
――これは、あの人の。
名前も知らないまま、夢の中で何度も見てきた「誰か」。
合理的で、感情が薄くて、何でもこなす人。
その人生の中に、今、自分は立っている。
朝が来る。
目覚ましが鳴る前に、自然に目が覚める。誰かに起こされることはない。起こす必要がある人もいない。
淡々と身支度をする。洗面所の鏡に映る顔は、ぼんやりしているのに、目だけが妙に覚めている。
……静かだ。
音がないわけじゃない。
ただ、会話がない。声を出す必要がない。
家を出る。鍵を閉める音が、やけに大きく響く。廊下を歩いても、誰ともすれ違わない。
通勤電車。
人はたくさんいる。肩が触れるほど近い。なのに、誰とも繋がっていない。
それが、当たり前のように続いている。
仕事場。
頼まれたことを、正確に、素早くこなす。説明はいらない。聞かれれば答える。感謝されることもある。
「助かります」
「さすがですね」
言葉は向けられる。
けれど、その言葉の先に、関係は生まれない。
昼休み。
一人で席に座り、決められた時間に食事を摂る。味は分かる。美味しいとも思う。だが、それを共有する相手はいない。
午後も同じ。
問題を処理し、無駄なく終わらせる。
何も失敗しない。
何も生まれない。
夕方。
仕事を終えて、誰に見送られるでもなく建物を出る。
空は夕焼けに染まっている。
綺麗だと、理依は思った。だが、その感情が、胸の奥で誰にも届かずに消えていく。
……消えそう。
それは理依の感想だったのか、それともこの人のものだったのか、区別がつかなかった。
帰宅。
灯りを点ける。誰もいない部屋。
テレビをつけても、音は背景に溶けるだけ。
誰かと話したいという欲求すら、もう形を持っていない。
孤独、という言葉が浮かぶ。
だが、この人生の中で、それは特別な状態ではなかった。
最初から、ずっとそうだった。
理依は、胸が締めつけられるのを感じた。
……どうして。
能力がある。
仕事もできる。
生きるための条件は、何一つ欠けていない。
それなのに、この人生は、まるで空気に溶けて消えていくみたいだった。
誰の記憶にも残らず、誰の心にも触れない。
その瞬間、理依は理解した。
この人は、孤独を「感じなくなる」ことで、生きてきたのだと。
感じてしまえば、耐えられなかった。
だから、感情を抑え、無駄を削り、合理的に生きることで、自分を守っていた。
……私とは、違う。
理依の胸に、鋭い痛みが走る。
自分は、当たり前のように誰かと話してきた。
朝の挨拶。
友達との愚痴。
家族との会話。
それらが、この人にとっては、どれほど眩しかっただろう。
次の瞬間、視界が揺れた。
住宅街。
下校中の子どもたちの声。笑い声。
その光景を、遠くから見ている視点。
胸の奥で、強い衝動が生まれる。
――欲しい。
その感情が、はっきりとした形を持った瞬間、名前が浮かんだ。
薮下颯馬。
理由は分からない。
ただ、その名前が、自然にそこにあった。
……そうか。
理依は、夢の中で静かに息を吸った。
彼は、眩しかったのだ。
理依の日常が。
理由もなく笑える生活が。
誰かに名前を呼ばれることが。
だから、入り込もうとした。
だから、自分になろうとした。
理解は、した。
けれど、それは受け入れとは違った。
……でも。
胸の奥で、何かが触れる。
言葉ではない。
声でもない。
ただ、感情が、直接、伝わってくる。
羨望。
渇望。
自己否定。
そして、強い執着。
理依は、はっきりと拒絶する感情を抱いた。
それでも、渡さない。
彼の人生がどれほど孤独でも、
その理由がどれほど理解できても、
自分の人生を差し出すつもりはなかった。
だが同時に、理依は気づいていた。
もう、完全に無関係ではいられない。
眠っている間、境界は緩む。
その隙間から、記憶は流れ込む。
そして今、理依と颯馬の間には、言葉を使わない「やり取り」が、確かに生まれていた。
拒絶と理解。
警戒と共感。
相反する感情が、同じ場所に存在している。
理依は、夢の中で、はっきりと思った。
あなたのことは分かった。
でも、私は私。
その感情が、相手に伝わったかどうかは分からない。
けれど、胸の奥で、微かな揺れが返ってきた。
夜は、やがて終わる。
夢も、静かにほどけていく。
理依は、目覚める直前、最後にもう一度だけ、
その名前を心の中で呼んだ。
薮下颯馬。
それは、敵でも味方でもない。
ただ、確かに存在する「もう一人」を、
初めて正しく認識した瞬間だった。
朝は、またやってくる。
そして、この二つの意識は、同じ身体の中で目を覚ますことになる。




