第一話 影のように生きる
薮下颯馬は、毎朝同じ時間に目を覚ます。目覚ましの音でゆっくりまぶたを開けると、冷たい空気と微かな埃の匂いが部屋に漂っていた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、隣家の生活のざわめきを淡く照らすだけで、彼の部屋には届かない。外の世界は動いているのに、自分だけが止まっているような、そんな感覚に毎朝包まれる。
窓の外では子供の笑い声が聞こえ、犬が吠え、ドアが開く音が微かに響く。それらは確かに世界の営みであるはずなのに、決して自分には触れない。
小学生の頃から、颯馬はこの孤独に慣れていた。クラスメイトとの会話は挨拶や宿題の貸し借りだけ。心を開ける相手など一人もいない。恋愛の経験もなければ、家族との会話も最低限で、夕食の時間はほとんど無言で終わる。
テレビに映る他人の生活――笑顔、会話、楽しげな姿――それは、届かない光景として胸を刺した。
会社員になった今も、孤独は変わらない。朝の電車の中で、周囲を見渡す。誰も自分に関心を示さず、肩を並べるカップルや談笑する同僚は、まるで別世界の住人のように遠い。どれだけ正確に仕事をこなしても、誰にも心を動かすことはない。
褒められることも、感謝されることも、笑顔で迎えられることも、決して――なかった。
胸の奥で、静かに呟く。
「……なんで、俺だけ」。
誰にも届かない孤独な声。自分は、ただ存在しているだけで、空気に溶けてしまうのではないかという恐怖。しかし、日常は淡々と過ぎていく。
帰宅した颯馬は、コンビニで買った弁当を開け、テレビをつける。家族の団らん、友達同士の笑い声、カップルの楽しげな仕草――それらはすべて、触れることのできない光景だった。
白いご飯を口に運びながら、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
長年忘れていた感情が、ふと胸をかすめる。
羨望、妬み、渇望――誰かと分かち合う喜び、笑い合う楽しさ、自分には決して手が届かない光景。
「……誰か、一人でもいいから、隣にいてくれたら」
孤独の中で、初めて自分の心が切実に願った瞬間だった。
夜、颯馬はスマートフォンを手に取り、暇つぶしにネットの深いページに潜った。ただ刺激を求めてのことだった。その時無数の広告と無機質なリンクの海の中、ふと目に入った文字列が彼の目を釘付けにする。
「他人に憑依できる薬――SoulMerge」
説明文にはこう書かれていた。
〈対象の魂と融合することで、その人生を生きることができる。ただし、元に戻れなくなる危険性あり〉
颯馬は指を止める。孤独と羨望の中で、理性はすぐに揺らいだ。手元にある孤独、遠くにある他人の幸せ――そのすべてが、彼を突き動かす。
オカルト染みたものだとはわかっている。
それでも颯馬の孤独は理性を凌駕していた。
しかし、誰に憑依するかはまだ決められない。具体的には思いつかない。
他人の人生を生きられる。その言葉を前にしたとき彼の頭に浮かんだのは、「どんな人生なら、まだ壊れていないだろうか」という問いだった。
競争。比較。成果。沈黙。
弱さは隠され、感情は役に立たないものとして処理される。颯馬は、その中で勉強も、仕事も、それなりの地位も手に入れた。
努力はした。
考えもした。
頭は悪くなかった。
それでも、人と繋がる場所には、最後まで辿り着けなかった。だからこそ、無意識に思っていた。
――もう一度、男として生きても、同じ場所に戻るだけだ。
男性の人生は、彼にとって「既知」だった。
そして、その「既知」は、あまりにも息苦しい。
次に頭に浮かんだのは、楽しそうに会話する女性たちだった。カフェで笑い合う同僚、街角で談笑する学生たち、友達とお揃いの服で写真を撮る女の子たち――その光景は、颯馬にとって手が届かないものだった。彼女たちの笑顔や無邪気さは胸に刺さるほど眩しく、羨ましいと心の底から思った。
孤独じゃない人生。それは「未知」である人生に答えがあるのではないか。自分の中で渦巻く渇望がそんな考えを想起させる。
……ずるいな。
颯馬は、自分が「男であること」に誇りを持てなかった。同時に、それを捨てたいとも強く思っていなかった。ただ、男であることが彼を救わなかった。それだけだ。
女性になりたい、という欲望ではない。女性の身体に意味を見出していたわけでもない。
彼が求めていたのは、「違うルールで始まる人生」だった。
感情を持っていい。弱さを表に出しても、すぐに切り捨てられない。誰かと並ぶことが、前提として許されている。そういう世界。それを、彼は「女性」という言葉の向こう側に、勝手に見てしまった。
もちろん、それが幻想であることも、偏った見方であることも、どこかで分かっていた。
それでも。
「……少なくとも。俺が知ってる世界じゃない」
その一点だけは、確かだった。
迷いは固まり、対象を女性に絞る。年齢も自分より若く絞る。やり直すなら若い方が良い。誰の人生を奪うかを決める責任と、失敗すれば元に戻れないという危険性が、胸を締め付ける。
そのとき、無機質なチャットウィンドウが開いた。売人の文字は冷たく簡潔だった。
〈ご注文の品はあります。決済確認後、発送されます〉
颯馬は慎重に尋ねた。
〈対象は指定できますか?〉
返事は短かった。
〈可能。ただし、成功確率や副作用は保証できません〉
冷たい文字に現実の重みを感じる。成功すれば他人の人生を生きられるが、失敗すればどうなるかもわからない。緊張と高揚が交錯し、胸は波立った。
颯馬は深呼吸をして、ゆっくりと決意する。誰に憑依するかはまだ決まっていない。しかし、孤独から逃れるための扉は、今まさに開かれた。
画面の決済ボタンを押す指先は震えていた――契約は完了した。
孤独の影の中で、初めて心に光が差し込む夜だった。
毎朝7時に投稿していきます。よろしくお願いします。




