勇者の帰還、あるいは崩壊の記憶
世界を救うことは、難しい。
でも、家庭を守ることは――その何倍も難しい。
魔王城では仲間が命を預けてくれた。
戦場では人々が俺を信じてくれた。
けれど家では、
その信頼が一つも残っていなかった。
この物語は、勇者である以前にただの父親だった男が、
自分の弱さに飲み込まれていく話だ。
剣も魔法も効かない。
努力も献身も、誰も見てくれない。
それでも――子供だけは裏切れない。
そんな男の戦いを、
どうか見届けてほしい。
「ゼェ……ハァ……ッ! ゲホッ、オェッ……!」
王都の中央広場に設置された転移魔法陣の石畳に、俺は無様に膝から着地した。墜落に近い。三半規管が狂ったように警鐘を鳴らし、視界がグルグルと回っている。胃の中身が逆流しそうになるのを必死で堪える。
MPは完全に空っけつだ。魔王城から王都までの一括転移なんて、本来ならパーティ全員の魔力を合わせてもギリギリの荒業だ。
それをMPポーションのガブ飲みと気合だけで強行した代償は大きい。
今の俺は、魔力欠乏症で指先一つ動かすのも億劫な状態にある。
通りがかる市民たちが、石畳に突っ伏して息も絶え絶えになっている中年男を奇異の目で見ているのが分かる。まさかこいつが、ついさっきまで世界の命運を背負って戦っていた勇者エンライトだとは誰も思うまい。
だが、休んでいる暇なんて一秒もない。即時抗告の期限は二週間。たったの二週間だ。 魔王討伐の旅路が二十年だったことを考えれば、瞬きするよりも短い時間しかない。
俺は鉛のように重い体を無理やり起こすと、ふらつく足取りで走り出した。目指すは弁護士事務所だ。
走り出しながら、俺の脳裏には走馬灯のように――吐き気を催すような悪夢の記憶が、鮮明にフラッシュバックしていた。
全ての始まり。俺の家庭が、音を立てて崩れ始めた、あの頃の記憶。
そもそも、なんでこんなことになってしまったのか。俺が一体、何をしたっていうんだ。 世界を救うために戦い、家族を養うために働き、良き夫、良き父であろうと努力してきたつもりだった。
それなのに、どこで道を間違えた?どの選択肢をへし折ってしまったんだ?
あれは、ちょうど一年前のことだ。
「ただいま〜」
夜の帰宅。玄関のドアを開ける瞬間、俺は意識して声のトーンを上げた。
魔王軍四天王の一角、『豪腕のギガントス』との激戦を制して帰還した直後だ。
正直、体中が悲鳴を上げているし、肋骨にはヒビが入っているかもしれない。治癒魔法で表面上の傷は塞いだが、蓄積した疲労までは消えていない。
それでも、家の中に戦場の空気は持ち込まない。それが俺の流儀であり、家庭人としてのプライドだ。
明るいリビングに入ると、ソファに妻のフレアが座っていた。
元宮廷魔術師長を務めていた彼女は、今日も美しい。流れるような金髪に、知性を感じさせる瞳。部屋着姿であっても、その高貴な雰囲気は隠しきれていない。彼女は手元の最新型魔導端末に視線を落としたまま、こちらを見ようともしなかった。
「……今日も遅かったね」
温度のない声。単なる事実確認だ。
「あ、ああ。ごめんな。いよいよ戦争も佳境に入ってきてさ。前線への補給線の確保で、騎士団ともめちゃって……」
言い訳がましいと思いながらも、俺は状況を説明しようとした。勇者の仕事がいかに多忙で、どれだけ世界にとって重要かを理解してほしかったわけじゃない。
ただ、遅くなった理由には正当性があると言いたかっただけだ。
だが、フレアは俺の言葉を遮った。
「コウは?」
「え?」
コウというのは長男の名前だ。俺はキョトンとして、まだ肩にかけたままの鞄を持ち直した。
「もうすぐ塾が終わる時間よ。迎えに行ってきて」
視線はスマホから外れない。俺は言葉に詰まった。まだ靴も脱いでいない。重たい鎧を外してもいない。命がけの戦場から帰ってきた夫に対して、最初の言葉が「息子の送迎に行け」なのか。
普通、「おかえり」とか「怪我はない?」とか、そういう会話のラリーがあるもんじゃないのか?
「あ、いや、でも俺、今帰ったばかりで……」
「だから何? 車(魔導車両)を出せばすぐでしょ?私は今、ママ友会の連絡網を回すので忙しいの。行ってきて」
フレアの命令は絶対だ。彼女の中では、魔王軍との戦争よりも、ママ友会での立ち回りの方が優先順位が高いのだ。俺は溜息を飲み込んだ。反論しても空気が悪くなるだけだ。
「わ、わかった。すぐ行ってくるよ」
その時、ドタドタと二階から階段を駆け下りる音が聞こえた。重苦しい空気を切り裂くような、元気な足音だ。
「ライト! ただいま〜」
「お父さんおかえり〜! 今日ね、学校でドラゴンごっこしたんだよ! 僕が勇者役やったの!」
次男のライトが、満面の笑みで飛びついてくる。
俺の足にまとわりつくその感触だけで、肋骨の痛みが半分くらい消し飛んだ。
「そうかそうか、ライトは強いな〜。将来はお父さんを超える勇者になれるぞ」
次男の頭をワシャワシャと撫でていると、今度はパジャマ姿の小さな影がトテトテと近寄ってくる。
愛娘、末っ子のエマだ。眠い目をこすりながら、俺を見上げて両手を広げる。
「おかえりー。お父さん、チュー!」
「おう、エマ! パパの天使! 世界一の癒やし! えへへ〜チュー!!」
これだ。この瞬間のために、俺は生きている。泥水をすすり、魔獣の群れに突っ込んでいくのも、全てはこの笑顔を守るためだ。
俺はデレデレと頬を緩ませ、エマを抱き上げようと屈み込んだ。
その時だった。
「ちょっと! 早く行きなさいよ!!」
リビングに、フレアの鋭い声が飛んだ。空気が一瞬で凍りつく。ライトがビクリと肩を震わせ、エマが怯えたように俺の服を掴んだ。
「遅れたらどうするの!?『勇者の家は時間にルーズだ』なんて、他の奥様方に言われるのは私なのよ!?私の立場も考えなさいよ!」
「あ、ああ、ごめん! すぐ行く! わかったよ!」
俺は慌ててエマを床に下ろした。悲しそうな顔をする娘に、「ごめんな、すぐ戻るから」と小声で謝り、逃げるように家を出た。背後でドアが閉まる音が、やけに冷たく響いた。
……できる限りのことは、やってるつもりなんだけどな。
世界を救うよりも、妻のご機嫌を取る方が遥かに難易度が高いなんて、誰も教えてくれなかった。
コウを塾でピックアップし、帰宅してからが本番だ。
一息つく間もなくエプロンを締め、キッチンに立つ。フレアは料理をしない。
いや、できないわけではないが、「手荒れが魔法の精度に関わる」という理由で、家事全般を俺に丸投げしている。
俺は勇者として、ありとあらゆる「基本職」のスキルをマスターしている。剣術や魔法だけじゃない。【料理人】スキルもレベルMAXだ。
食材のカットは【剣速】スキルで目にも止まらぬ速さで行い、火加減は【火魔法制御】で完璧にコントロールする。
正直な話、王宮の三ツ星シェフより腕はいい自信がある。
今夜のメニューは、子供たちが大好きなハンバーグだ。挽肉をこねながら、俺はリビングの様子を伺った。
俺がキッチンの炎と格闘し、肉汁の香りを漂わせている間、フレアはずっとソファに深く座り込み、スマホをいじっている。
ここ最近、彼女はずっとそうだ。子供たちが学校での出来事を話そうとしても、「今忙しいから」と生返事。
だが、スマホの画面を見ている時だけは違う。時折、フフッと楽しそうに笑うのだ。 俺にはもう何年も見せていない、少女のような柔らかい笑顔で。
何を見ているんだろう。お笑い動画か?それともママ友とのチャットだろうか。
疑うわけじゃないが、胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感を覚える。
「……ねえ、父さん」
キッチンカウンター越しに、コウが話しかけてきた。眼鏡をかけたインテリ風の11歳。俺に似ず賢い子だ。
「ん?どうしたコウ。腹減ったか?もうすぐ焼けるぞ」
「ううん、違うよ。明日はショートステイの日だから、準備しておいてって言いに来たんだ」
「ん?ああ、そうか。明日は週末か。わかった。着替えとかの準備は父さんにお任せでいいか?」
「うん。明日はロイドさんが担当の日だから、楽しみだな」
コウの声が少し弾んだ。
「ははは、お前たち、本当にロイドさんには懐いてるな〜」
俺は苦笑しながらハンバーグを裏返した。ショートステイサービス。
これは国が運営している、育児支援のための短期預かり制度だ。
三人の子供の育児、特にワンオペになりがちな平日の負担に疲弊していたフレアのために、俺が役所に掛け合って手配した特別枠だ。
俺が遠征で不在の間、少しでも彼女が一人になれる時間を作り、ストレスを解消できるように。そう思って導入した制度だった。
管理責任者を務めるロイド氏は、俺より一回り若い、物腰の柔らかい好青年だ。
福祉の専門家であり、子供たちの扱いにも慣れている。
以前、俺の休日と彼のシフトが重なった時、彼も含めて家族全員で『王立モンスターパーク』に遊びに行ったこともある。
子供たちは彼を兄のように慕っていたし、フレアも彼と話すときは機嫌が良かった。 俺は彼を信頼していた。
勇者の留守を守ってくれる、家族ぐるみの付き合いができる良きパートナーだと思っていた。
――そう、この時までは。俺は疑いもしなかったのだ。その信頼が、とんでもない裏切りの温床になっているなんて。
決定的な違和感を覚えたのは、それから数日後のことだ。
王宮での軍議を終え、廊下を歩いていた時のことだった。
『あれ、エンライト様? お疲れ様です』
声をかけてきたのは、王宮の人事部に勤める知人だった。
『奥様なら、先ほど城下町のカフェでお見かけしましたよ。てっきりエンライト様もご一緒かと思ったんですが』
「え? フレアが? 誰かと一緒だった?」
『ええ。ショートステイの担当の、ロイドさんとご一緒でした。いやぁ、教育熱心ですねぇ。お子様たちのケアプランの打ち合わせでしょう? 奥まった個室で、ずいぶん熱心に話し込まれてましたから』
知人は悪気なく笑って去っていった。俺はその場に釘付けになった。
「……え?」
おかしい。ケアプランの作成や契約更新の手続きは、保護者であり、かつ児童福祉の知識もある「俺」の管轄だ。そういう取り決めになっている。
俺が立ち会うことになっているはずだ。なぜフレアだけで?しかも、役所の窓口ではなく、カフェの個室で?
一度芽生えた疑念は、黒いインクを垂らした水のように、じわじわと俺の心を侵食していった。そういえば、エマの通う幼稚園の保母さんからも言われたことがある。
『お迎え、最近はロイドさんがいらっしゃることが多いですね。パパさんはお忙しいんですか?』と。俺が頼んでもいないのに?国からの委託業務に、個人的な送迎なんて含まれていないはずだ。
そしてある夜。俺はついに、禁断の果実に手を伸ばしてしまった。フレアが入浴中、リビングのテーブルに無造作に置き忘れたスマホ。いつもなら絶対に見ない。夫婦のプライバシーは尊重すべきだと思っていた。
だが、胸騒ぎが止まらない。俺は勇者のスキル【隠密】を発動し、気配を完全に消してスマホに近づいた。
そして、【解錠】スキルを指先に集中させる。どんな強固な宝箱も開けるこの指が、妻のスマホのパスコードを突破するために使われるなんて、なんて皮肉だろうか。
罪悪感で指が震えた。見ちゃいけない。見たら、もう後戻りできない気がする。
だが、ロックが解除され、画面に表示されたトークアプリの履歴を見た瞬間、罪悪感は一瞬で消し飛び、代わりに強烈な吐き気がこみ上げてきた。
ロイド『今日のフレアさん、魔法少女みたいで可愛かったよ(ハート)』
フレア『やだ、もうおばさんよwあの筋肉ダルマ(夫)と違って、ロイド君は本当に優しいわね』
ロイド『彼、また遠征?寂しいね』
フレア『ううん、最高よ。ATMがいない間に、また会える?』
ロイド『もちろん。次はショートステイの面談ってことにして、いつものホテルで』
フレア『嬉しい!子供たちは実家に預けるから、朝まで大丈夫よ』
そこには、出るわ出るわ。目を覆いたくなるような言葉の数々。俺を「脳筋」「ATM」「家事ロボット」と嘲笑し、揶揄する言葉。
密会の具体的な日時指定。お互いにプレゼントを送り合って自慢する写真。
そして、決定的な――二人が肉体関係を持っていることを示唆する、あまりにも生々しいやり取り。
「……う、おぇ……ッ」
俺は口元を押さえた。血の気が引いていくのがわかった。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。ATM。筋肉ダルマ。
俺が命を削って稼いだ金で、俺が愛した妻と、俺が信頼した青年が、俺を嘲笑いながら逢瀬を重ねている。
しかも、子供たちの福祉のための制度を悪用して。
怒りでスマホを握りつぶしそうになった。今すぐ風呂場に怒鳴り込んで、全てを問い詰めるべきだ。ロイドの職場に乗り込んで、そのふざけた性根を叩き直すべきだ。
それでも。愚かなことに、俺はこの時、まだ事を荒立てるつもりはなかった。見なかったことにしようとした。そっとスマホをテーブルに戻し、震える手で画面をオフにした。
なぜかって?怖かったからだ。家庭が壊れるのが。もし問い詰めて、「そうよ、あなたのせいよ」と言われたら?
俺がもっと頑張れば。もっと稼いで、もっと家事の負担を減らして、フレアを楽にさせてやれば、彼女はまた戻ってきてくれるんじゃないか。
これは一時的な迷いなんだ。俺が至らないせいなんだ。
子供たちから、母親を奪うわけにはいかない。片親にするわけにはいかない。
俺さえ我慢すれば、この形だけの幸せは維持できる。
その「甘さ」が、その「事なかれ主義」が、後に自分の首を絞め、子供たちを地獄へ道連れにすることになるとも知らずに。
俺は逃げるように寝室へ戻り、枕に顔を埋めた。
世界を救う勇者が、魔王よりも恐ろしい家庭の崩壊からは、ただ目を背けることしかできなかったのだ。
本当に、救いようのない馬鹿だった。
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