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第5話「黒板の向こう側」

 粉っぽい空気の中で、凛は名簿を開いていた。


 二年C組 名簿。

 表紙の角は擦り切れ、バス事故のときに付いた泥と血の跡がまだ残っている。ページをめくると、そこには十三人分の名前が整然と並んでいた。


 ――十三。


 今、教室にいるのは九人だ。

 黒板には、生存者点呼 9 の文字。

 それでも名簿の数字は変わらない。紙の上では、誰も欠けていない。


 凛は、ふと気づいた。


 削られてきたのは、本当に“人数”なのか。


 「……どうした、凛」


 隣で椅子に座っていた真壁が、ゴーグル越しに覗き込んでくる。足首の傷はまだ完全にはふさがっていないが、歩くには支障がない程度には回復していた。


 「ねえ、真壁くん」


 凛はページの上の数字を指でなぞりながら言った。


 「黒板が言う“生贄”って、最初から“人”そのものを指してたのかな。もしかして、“選び方”の方なんじゃない?」


 「選び方?」


 「誰を犠牲にするかじゃなくて、どうやって犠牲を決めるか。……私たちが“多数決で決める”って選んだときから、もう黒板のゲームに乗ってたんじゃないかなって」


 真壁は、少しだけ目を細めた。思考モードに入るときの癖だ。


 「裏の教室、見たよね」凛は続ける。「粉の向こうに、もうひとつの教室。あっちには、まだ全員いるみたいに見えた。……もしかして、あっちでは“違う選び方”をしてるんじゃない?」


 「違う選び方?」


 「“生き残るための犠牲”と“生かすための犠牲”、どっちを選ぶかって、黒板が聞いてきたよね。……あれ、単に倫理の問題を投げてきたんじゃなくて、“分岐条件”だったのかも。どっちの意味を選ぶかによって、点呼がどっちの教室側で減っていくかが決まる」


 真壁の表情が、一瞬だけ強張った。


 「つまりこっちは、“生き残るため”を選ぶクラスとして扱われていて、裏の教室は“生かすため”の世界、というわけか」


 「逆かもしれないし、混ざってるのかもしれない。でも、“生贄”って言葉が指してるのは、“どっち側のルールで犠牲を数えるか”の方なんじゃないかな」


 凛は、黒板を見上げた。黒板は何も書いていない。ただ、左上の「席順は、動くな」という痣のような文字と、生存者点呼 9 が残っているだけだ。


 「……もしそうなら」真壁がゆっくり言う。「“選び方”ごと、入れ替えることができれば――」


 「点呼を、反転させられるかもしれない」


 凛の胸が、少しだけ熱くなった。まともな可能性かどうかはわからない。それでも、このまま黙って数字が減っていくよりは、マシだった。


 ◇


 佐伯先生は、窓際の席に座っていた。


 割れた窓はビニールで塞いであるが、隙間風が冷たく吹き込んでくる。それでも先生はそこを離れようとしなかった。まるで、自分だけ別の場所の空気を吸っているべきだと信じ込もうとしているみたいに。


 「先生」


 凛は名簿を閉じて、先生のそばへ行った。灯と優花も、少し離れてそれを見守っている。


 「……なんだい」


 先生の声は疲れていたが、まだ教師としての響きを失ってはいなかった。


 「さっき、もう一度、自分を“生贄”にって言いましたよね」


 昼前、先生は黒板の前に立ってそう宣言した。

 自分の嘘の責任は、自分が取るべきだ、と。

 だが黒板は、冷徹にそれを弾いた。


 教師不可

 対象は 生徒の世界に限る


 白い文字はすぐに消されたが、その冷たさはまだ教室に残っている。


 「俺の嘘で……何人も生徒を危険な席に座らせた。その結果として、誰かが死んだ。なのに、俺は“対象外”だと?」


 佐伯先生は、自分の手を睨むように見つめた。包帯の下、痣だらけの指先。


 「責任を取る資格さえ、ないのか」


 その言葉には、諦めとも怒りとも違う色が混ざっていた。誰かに責められることを望んでいるような、自分を罰してくれる何かを必死に探しているような声。


 「黒板は、先生を“外側”の存在として見てるんだと思います」


 凛は慎重に言葉を選んだ。


 「ここは“生徒の世界”で、先生は、もしかしたら最初から……舞台装置の一部みたいに扱われてる。ひどい言い方かもしれないけど」


 先生は、しばらく黙っていた。やがて、小さく笑った。


 「ひどくなんかないさ。……俺自身、そう思っていたからな。進路指導も、座席の配置も、“成績のため”“学校のため”だと、自分に言い聞かせていた。生徒を守るなんて、都合のいい看板を掲げながら」


 目尻に、疲れた皺が浮かぶ。


 「黒板には、それがよく見えているんだろう。“外側”から、生徒を並べ替えていた俺の手を」


 「なら、先生の嘘も、“供物”にできるかもしれません」


 凛は名簿を胸に抱き締めた。


 「ここに書かれてるのは十三人の名前だけじゃなくて、“どう並べられたか”って記録でもある。座席の配置換え、その結果としての事故。……先生の嘘も、その“配置”に含まれてる」


 「どういうこと?」灯が近づいてくる。


 「私たちが黒板に差し出すべきなのは、誰か一人の命じゃなくて、“並べ方そのもの”なんじゃないかって。名簿を使って、“犠牲=後ろの自分”って定義に書き換えれば、黒板のルールを“別の形”に上書きできるかもしれない」


 “生贄”は個人じゃない。

 犠牲を決めるアルゴリズム。

 多数決、自己犠牲、教師の裁量――それらをまとめて、一つの“写し替え”で提示する。


 名簿を、黒板の向こう側に押しつける。


 それが、凛の思いついた唯一の反撃だった。


 ◇


 準備には、皆の協力が必要だった。


 まず凛は、名簿のコピーを急ごしらえで作った。理科準備室から古い OHP シートとカーボン紙を見つけ、手で名前をなぞって転写する。雑な写しでもいい。重要なのは“並び順”だ。


 次に、そのコピーを席順どおりにずらしていく。たとえば、出席番号一番の名前を二番の席に、二番を三番に……と、一つずつ後ろへ送っていく。最後尾に回された名前は、先頭に重ねる。


 「〈犠牲=後ろの自分〉?」


 真壁が、順番がずれた名簿を見下ろしながら言った。


 「意味はわかる。でも、これって結局“誰かが一番後ろに押し出される”だけじゃ――」


 「そこは、黒板に委ねるしかないよ」


 凛は自分でも、その言葉が怖いと思った。


 「私たちの方で、“誰を一番後ろにするか”を決めない。全員分の名前を“回転”させて、その回転そのものを黒板に渡す。……黒板が“誰か一人を選べ”って迫ってきても、そこには“選び方しか残ってない”状態にするの」


 理解したような、していないような顔がいくつも並ぶ。


 「つまり、“生贄にするのは、この選び方です”って差し出すわけね」灯がまとめた。「私たち自身じゃなくて」


 「うん」


 「で、そのために黒板の裏側の装置に、一時的に“隙”を作る必要がある」真壁が続ける。「灯は歌でノズルの動きを乱し、僕は屋根裏の電源を一時遮断する。……ただ、完全に落としたら何が起こるかわからない。だから、“落としかけた状態”で保持する」


 「そんな器用なこと、できんの?」優花が不安げに訊く。


 「やってみるしかない」


 朔は、そのやりとりをじっと聞いていた。腕組みをしたまま、黒板と名簿を交互に眺める。


 「じゃあ、俺の役割は?」


 「……黒板の“妨害”だ」


 真壁が言った。


 「床下点検口と、黒板裏の通路。お前しか知らない経路があるなら、そこから黒板の裏板を直接“殴る”。装置を完全に壊す必要はない。悲鳴を上げさせるくらいでいい」


 「装置を壊して、こっちがどうなるかは知らないけどね」と優花が付け足した。「いきなりドーンとか、マジでやめてよ」


 「壊すんじゃない。揺らすだけだ」


 朔の目は、どこか決意に似た光を帯びていた。「あっちの教室――裏の“まともな”方の世界が、本当に存在するなら、そこと“接触”するタイミングを作らなきゃいけない。黒板の向こう側がただの壁じゃないって、俺は知ってるから」


 教室は、自然と二つの意見に分かれた。


 凛の案――名簿と選び方を供物にする案に賛成する者。

 そんな危険な賭けよりも、これまでどおり“個人の犠牲”で回避できる道を探そうとする者。


 「私は……凛の案に賛成」


 灯が手を挙げる。「誰かひとりに背負わせるくらいなら、みんなで考えた“選び方”そのものを差し出した方がまだ、ましな気がする」


 「俺もだ」真壁が頷いた。「ここまで来て、まだ“誰か”を指さす勇気はない。だったらせめて、アルゴリズムを壊す」


 優花は腕を組んで黙り込んでいたが、最後には小さく頷いた。「……怖いけど、黒板に全部決められたくはないから」


 一方で、反対側もいた。


 「きれいごとだろ、それ」


 男子のひとりが言う。「選び方だけ差し出して、全員助かろうって? 自分たちの手を汚さないで、黒板に全部押し付けるだけじゃん」


 「俺も……正直、そんな都合のいい話があるとは思えない」朔も言った。「名簿に罪を被せたところで、本当に黒板が納得するかどうかはわからない。……だからこそ、俺は俺で、別口で動く」


 「別口?」凛が眉をひそめる。


 「裏の教室に、もう一人の“俺たち”がいるなら……そいつらの誰かが代わりに減ってくれれば、それでいいんだろ? だったら、黒板の“向き”を変える。こっちじゃなくて、向こう側の数字が減るように」


 その言葉に、教室の空気がざわついた。


 「向こうの俺たちに犠牲を押しつけるってこと?」


 灯が信じられない、という顔で朔を見る。


 「どっちが“本物”か、わからないだろ」朔は淡々と言う。「もし向こうが、“事故も黒板も何も起きなかった普通の二年C組”だとしたら、そいつらは俺たちのことなんて最初から知らない。……知らない誰かが消えることで、ここで必死に生きてる俺たちが助かるなら、俺は選ぶ」


 それは、これまで誰も口にしてこなかった種類の残酷さだった。


 凛の胸が、じくりと痛む。


 「……それでも、私は、こっち側で完結させたい」


 自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。


 「向こうの私たちに押し付けるんじゃなくて、“ここにいる九人”の話として終わらせたい。……たとえ誰も覚えてなくても、私たちが何を選んだかは、ここに残せるから」


 凛は、自分のノートを抱き締めた。“黒板観察記録”と書かれた、最初からずっと書き続けているページ。チョークの粉と涙で汚れた紙が、唯一の拠りどころだった。


 朔は、少しだけ視線を逸らした。


 「……いいよ。だったら、どっちのルートが“通る”か、やってみればいい」


 ◇


 深夜。分校の中は、焚き火の明かりと懐中電灯の光だけが揺れていた。


 準備は整った。


 教室の前方、黒板にはまだ何も書かれていない。代わりに、その表面に、凛たちが作ったずらした名簿のコピーが何枚も貼り付けられていた。テープで固定され、席順に合わせて上下に並べられている。


 黒板の左上には、小さく「犠牲=後ろの自分」と書かれていた。凛の字だ。


 灯は教室の中央で、声帯を軽く鳴らしている。高めの音階を出すと、黒板の上に積もった粉がふわりと揺れるのがわかった。真壁は屋根裏に向かう準備をしている。脚立の位置を確認し、電源ケーブルのルートを頭の中で再計算していた。


 朔は、床下点検口の前に立っていた。これから降りる暗闇を見下ろし、拳を握り締める。


 「よし……始めるぞ」


 真壁が、最後に教室を見回して言った。


 「三つのタイミングを、できるだけ合わせる。灯、合図したら全力で歌ってくれ。凛は黒板の前で名簿を押さえながら、“供物”として差し出すつもりでいて。――朔、お前は……」


 「わかってる」


 朔は、短く答えた。「黒板の裏板を叩く。あっち側にいる“誰か”に、こっちの存在を知らせてやる」


 「本当にやるんだ……」優花がこわごわと呟く。


 灯が、そんな彼女の手を握った。「大丈夫。……大丈夫かどうかは知らないけど、今さら止まっても仕方ないから」


 凛は、黒板の前に立った。目の前には、名簿の列。その向こうに、黒板。さらにその向こうに、裏の教室――そう信じ込むことでしか、自分を保てなかった。


 「……黒板」


 小さく呟く。


 「これが、私たちの“選び方”。誰かひとりじゃなくて、私たちが積み重ねてきた嘘と決断の並び。……これを、生贄にする」


 返事はない。

 かわりに天井から、真壁の声が降ってきた。


 「灯、今だ!」


 灯が、深く息を吸い込んだ。


 教室に、歌が満ちる。


 あの日、音楽室で歌った合唱曲。卒業式で歌うはずだったはずの曲。まだ誰も見ていない未来を信じて歌った歌。今はその歌詞ひとつひとつが、必死の祈りに変わっていた。


 黒板の上で、粉が大きく舞い上がる。ノズルの周りで渦が巻き、火花のような光がちらついた。裏板を走る微弱電流と、歌の振動が噛み合って、予想以上の干渉が起こっている。


 「電源、落とす!」


 屋根裏から、真壁の叫び。

 次の瞬間、教室の蛍光灯の管が一斉に明滅した。しばらく死んだままだったはずの灯りが、悲鳴のような光を放ち、すぐに消える。天井のどこかで、低い唸り音が止まりかけ、また動き始めた。


 黒板の表面に、亀裂のような線が走る。チョークの粉が、通常の倍以上の勢いで吹き出し、名簿の紙を白く染める。


 床下から、鈍い衝撃音が響いた。


 朔が、黒板の裏板を殴ったのだ。


 最初の一撃。

 二撃目。

 三撃目。


 そのたびに、黒板の右端が小さくめくれ上がるように震える。粉の嵐の向こう側で、何かが軋む音が鳴った。


 「やめろ、危ない!」


 誰かが叫んだが、もう止まらない。


 教室は、完全に二つに割れていた。


 凛たち名簿組と、朔の妨害組。

 灯の歌は、その間を割って響き続けている。

 真壁の声は屋根裏から、不安定な電流と格闘しながら漏れ聞こえてくる。


 黒板が、火花を散らした。


 金属の焼ける匂いがした。ノズルから噴き出す粉の量が一気に増え、教室の中は白い霧で満たされる。視界がほとんど利かなくなった。


 「凛! 離れて!」


 誰かの声が聞こえたが、凛は黒板から離れなかった。名簿の束を両手で黒板に押し付ける。紙が熱を帯び、指先がじりじりと焼けるように痛い。


 「これを……持っていきなよ……!」


 どこに向かって言っているのか、自分でもわからなかった。


 粉の向こう側で、何かが“開く”感覚があった。


 黒板の表面が、液体みたいに揺れた。

 冷たい板だったはずのそこに、深さが生まれる。

 その奥で、別の光が瞬いた。


 裏の教室の窓に、朝日が差し込んでいた。


 ◇


 粉の幕の向こうに、もうひとつの世界が見えた。


 きれいに並んだ机と椅子。

 割れていない窓。

 二年C組の生徒たち。


 そこでは、まだ誰も欠けていないように見えた。

 点呼は十三。黒板にそう書かれているのが、ぼんやりと読める。


 別の凛が、前から二列目の席に座っていた。

 別の灯が、笑いながら隣と話していた。

 別の真壁が、教卓の前で何かを説明している。

 朔の姿も、そこにはあった。


 彼らは、こちらを見ていない。

 窓には、青い空と、遠くの山の輪郭。

 教室の中には、普通の会話と笑い声。


 「……いいな」


 誰かが、羨望とも諦めともつかない声で呟いた。


 黒板の中央に、文字が浮かび上がる。こちら側にも、向こう側にも。


 選び方を 差し出すか


 世界を 差し替えるか


 凛は、名簿を握り締めたまま、歯を食いしばった。


 「世界ごと、入れ替える気……?」


 向こうの十三人と、こっちの九人。

 黒板が提示してきているのは、つまりそういうことだ。


 “生贄”を、個人ではなく世界ごと選べ。


 「嫌だよ……そんなの」


 灯が、掠れた声で言った。歌とは別の震えが喉を走る。


 「ここで一緒に耐えてきたの、私たちなのに。向こうの“私たち”に全部任せて、自分だけ消えるとか……それか、向こうを消して、自分たちだけ生き残るとか。どっちも、嫌だよ」


 朔は粉煙の向こうの自分を見ていた。

 あっちの朔は、普通の制服で、普通の顔で、普通の時間を過ごしている。黒板なんて見ていない。


 「……どっちか選ばなきゃ、きっと黒板は“勝手に選ぶ”」


 真壁の声が、屋根裏からかすかに聞こえてくる。彼もまた、向こう側の教室を見ているはずだ。


 「だったらせめて、自分たちで意味を決めるしかない」


 黒板に、新たな文字が浮かぶ。


 供物として 名簿と嘘を差し出すなら 「十分」


 誰か一人を“生かすための犠牲”として選ぶなら 「受容」


 世界を写し替えるなら 「曖昧」


 凛は、笑いそうになった。

 どこまでも、性格の悪い選択肢だ。


 「……十分、受容、曖昧って。どれも、結局、誰かが傷つくじゃん」


 優花が、泣き笑いみたいな顔になっている。


 灯が、歌を止めた。


 喉が限界だったのかもしれない。でも、その瞬間だけは、意図して止めたように見えた。


 「ごめん」


 灯は言った。


 「もう、歌うのやめる」


 「灯……?」


 「“生かすための犠牲”を選ぶって言ったの、覚えてる? あれ、本気だから。歌は、誰かを残すためにあるって」


 灯の目は、驚くほど静かだった。


 「だから、私、自分の席を空ける。……そうしたら、黒板は“十分”って言ってくれるかもしれない。名簿も、嘘も、歌も、全部まとめて」


 「ちょっと待ってよ!」


 凛は叫んだ。

 足が勝手に動いて、灯の腕を掴む。


 「そんなの、違う。選び方を供物にするって言ったのに、結局誰か一人が前に出るだけじゃ――」


 「選び方ごと、持ってくから」


 灯は微笑んだ。涙を浮かべながら、それでも笑っていた。


 「私が、ここまでの選び方全部引き受ける。“生き残るため”も“生かすため”も、“嘘”も“多数決”も、“黙って見てたこと”も。……それ持って、向こうに押しつけるんじゃなくて、黒板の向こう側に置いてくる」


 どこにも残らないように。

 どちらの世界にも、負債として残らないように。


 それが灯の言う“生かすための犠牲”なのだと、凛は気づいた。


 黒板が、ざわりと音を立てた。

 粉の渦が大きくなり、裏の教室の景色がいったんかき消える。


 その間隙に、灯は黒板の前へ進んだ。


 名簿の束にそっと手を触れ、

 その上から、自分の手を黒板に押し当てる。


 「行ってくるね」


 誰に向かってなのか、自分でもわからない。


 次の瞬間、黒板の表面が、灯の手首まで彼女を飲み込んだ。


 「灯!」


 凛は飛びつこうとしたが、その前に黒板が一気に弾けた。

 チョークの粉と熱で、視界が真っ白になる。

 耳に、歌の残響が刺さるように残った。


 ◇


 粉が、ゆっくりと落ちていく。


 黒板は、真っ黒になっていた。

 白墨の粉がすべて燃え尽きたみたいに、どこにも白い跡がない。


 貼り付けていた名簿の紙も、跡形もなく消えていた。

 テープだけが、虚しく板に貼りついている。


 灯の席は、空っぽだった。


 誰かの荷物も、上着も残っていない。

 さっきまでそこに座っていたはずの人の温もりだけが、かすかに椅子の表面に残っているような気がした。


 「……灯?」


 凛は、空席を呼んだ。返事はない。


 黒板が、最後の文字を書いた。


 生存者点呼 9


 数字は、変わっていなかった。


 「減ってない……?」


 優花が呆然と呟いた。


 「いや――」


 真壁が、震える声で言う。「違う。……“増えて”もいない」


 灯の存在は、数字の上では最初からカウントされていなかったかのように。

 ただ“欠けたままの九”が、そのまま最後の数字として固定された。


 窓の外を見上げると、空は薄暗いままだった。

 夜明け前の、青とも黒ともつかない色。

 それが、さっきからまったく変わっていない。


 「……朝が、来ない」


 誰かがつぶやく。


 裏の教室の方を見ると、そこではもう完全な朝になっていた。

 光が差し込み、生徒たちの影が床に伸びている。

 笑い声が、かすかに届く気がした。


 黒板の向こう側。

 その端の席に、別の凛が座っていた。


 こちらを見てはいない。

 だが、彼女の机の上には、一冊のノートが置かれていた。


 表紙にはこう書かれている。


 黒板観察記録


 ――凛は、息を呑んだ。


 「……あっちにも、私がいる」


 こちらの黒板は、もう何も書かない。

 黒い板のまま、永遠の夜明け前の教室を映し続けるだけだ。


 点呼は 9 で止まった。

 窓の外の朝は、永久に来ない。

 灯の歌も、戻ってこない。


 それでも凛は、自分のノートを開いた。


 最後のページに、震える手で文字を書き込む。


 ――第5日目、「黒板の向こう側」を目視。

 犠牲は、個人ではなく選び方そのもの。

 歌は消えたが、記録は残る。


 ペン先が止まる。


 「……灯。見てる?」


 返事はない。

 だが、向こう側の教室で笑う別の灯の影が、少しだけこちらを振り返ったような気がした。


 凛は、ゆっくりとペンを置いた。


 たとえ、この教室に朝が来なくても。

 たとえ、自分たち九人のことを、誰も覚えていなくても。


 この記録だけは、黒板の向こう側のどこかで、誰かの手に渡るかもしれない。


 それが、ここに残された“生き残り方”なのだと信じるしか、もう術はなかった。

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