第1話「点呼の壊れた朝」
山に沈みかけた陽光が斜面の影を伸ばし、午後の風が焦げた匂いを運んでいた。谷間のカーブで横転したスクールバスは、山肌に削りつくように止まり、車体の一部が捻じれて開いた腹のように口を広げている。エンジンの音はとうに消えていたが、鉄の焦げた匂いだけはまだ残っていた。
凛は震える指先で名簿を拾い上げた。泥と砕けたガラス片が貼りついたページ。その表紙には「2年C組 名簿」と黒マジックの歪んだ線が残っている。ページをめくると、十三人の名前が整然と並んでいた。呼び慣れたクラスメイトの一覧なのに、今は見知らぬ暗号みたいに見える。
「全員……いる?」
声が掠れていた。返事はバラバラに散って、小さな安堵と大きな動揺が混じった匂いがする。
佐伯先生が腕を押さえて座っていた。制服の袖は裂け、血が乾いて黒くなり始めている。灯はバッグをひっくり返し、消毒液と包帯を取り出して、先生の腕に巻きつけていた。
迅は足を引きずって、凛のそばへやってきた。「足首やっちゃった。でも動けるし、大丈夫」
笑おうとしたみたいだが、顔はひきつっていた。
あたり一面は夕暮れの色に染まり、群青へ変わる時刻が近づいていた。山気のある冷たさが肌を刺す。
「とにかく、ここを離れるぞ。車体にいたら夜は危ない」
佐伯先生の声は弱っていたが、迷いのない響きだった。
バスから少し離れた位置、斜面に寄り添うように建つ小さな建物があるのが見えた。古びた白色のプレハブ。看板の色は風雨に削られて読めないが、かつて山間の分校として使われていたらしい。
彼らは協力して坂を登りながら、玄関をこじ開けた。中から湿気のこもった空気と、古紙の匂いがふわりと広がった。
構内は暗い。だが、夕陽が割れた窓から差し込んで、教室の内部が赤く浮かび上がった。
黒板は無傷だった。反対に、窓は半分が割れ、机や椅子は揃わず、いくつも欠けていた。座席の足跡のように、曖昧な数の生活の痕跡が散らばっている。床に座る者、椅子を引き寄せる者、皆がそれぞれの位置に散った。
真壁がスマホを掲げた。「電波……圏外。完全に死んでる」
「水と焚き物、どうする?」灯が訊いた。彼女の声は落ち着いているように聞こえるが、瞳は小刻みに揺れている。
「三人一組で動こう」佐伯先生が即座に答えた。「今夜しのぐための最低限を確保する。水は沢を下ればありそうだ。焚き物は周辺で拾えるはずだ」
凛は黒板の端に目をやった。そこには何も書かれていない黒の縦長の空白が広がっている。妙に静かで、妙に意味深な空白だった。
チョーク入れに手を伸ばすと、白いチョークが三本だけ転がっていた。凛は一本を取り、黒板にゆっくりと書いた。
生存者点呼 13
音は軽いはずなのに、チョークが黒板をこする音がやけに大きく響いた。粉が指に付く。それを見た誰かが冗談めかして「助けを待つ」と小さく書き足した。その瞬間、教室に乾いた笑いが少しだけ広がった。
だが、その笑いが完全に消える出来事は、思ったより早く訪れた。
校舎裏の祠から借りてきた古い鐘が、外から「コーン」と鳴った時だった。
音の向こうから戻ってきた凛たちの目に飛び込んできたのは、黒板中央に刻まれた見慣れない文字だった。
明日の朝までに生贄を選べ
従わなければ全員死亡
呼吸が止まる音が聞こえた気がした。誰が一瞬で、こんなものを? 全員が互いを見た。困惑と怒りと恐怖が交錯して、室内の温度が急に下がったようだった。
迅が唇をかみ、吐き捨てるように言った。
「くだらねえ冗談だろ。こんなん書いた奴、今ここで名乗り出ろ」
消そうと手を伸ばしたその瞬間、真壁が腕をつかんだ。「ダメだ。証拠を壊すな。筆跡、線の太さ、粉の成分……全部わかるかもしれない」
言いながら、真壁は黒板ぎりぎりまで顔を近づけ、小さな紙片に粉をすくった。そして目を細めた。
「古い炭酸カルシウムじゃない。比較的“新しい”チョークの粉だ。ここに長く放置されてたやつじゃない」
「じゃあ……誰かが書いたってこと?」灯が青ざめた声で言った。
佐伯先生は黒板の文字をスマホで撮影し、「悪ふざけ」で済ませようとする声を制した。「今のうちに名乗れば、不問にする。だが嘘をついていたら、あとが大変だぞ」
誰も名乗らなかった。
教室の時計は止まったまま。スマホを見ると、時刻は二十時十四分。外は完全に暗くなり、風が瓦礫を鳴らすたび、誰かの肩がびくついた。
議論はすぐに割れた。
まず迅たちの意見。
① 書いた犯人を見つけて終わりにするべき派。
次に灯が主導した、
② こんなもの無視すればいい派。
どちらも正論に見えて、どちらも浅い。異様な緊張が広がる中、真壁が第三の案を提示した。
「『従わなければ全員死亡』が本当かどうか、検証してみるべきだ。黒板に第二の変化が起きるかどうか、監視する。交代で仮眠と見張りと火の番を分ける。夜明けまでに何も起きなければ、この命令は無効だ」
反論の余地がなかった。間違っているようで、妙に筋が通っていた。
その夜、凛は見張りの最初の当番に入った。体は疲れているのに、神経は研ぎ澄まされ続けていた。瞼がまだ燃えているバス事故の余熱を覚えている。
凛はノートを開き、黒板観察記録と書いた。続けて、筆圧、線の癖、粉の散り方、書かれた位置――そんな項目を箇条書きにしていく。書いていくほどに、自分が冷静さを保つために書いているのだと気づいた。
他のメンバーは簡易封印として、窓や扉にテープを貼った。誰かがこじ開ければすぐにわかるように。
灯は控えめに歌い、少しだけ空気が緩んだ。外の風はしだいに冷えて、校舎全体がギシギシと軋んだ。
時刻は午前二時。
眠気の重さと警戒が拮抗して、凛の意識はずっと浅い。黒板を見つめていた時、校舎の床がほんのわずかに震えた気がした。
耳が勝手に反応し、凛は暗がりを凝視した。
天井の、死んだはずの蛍光灯の管がほの白く光ったように見えた。
「いま……光った?」
隣で見張りをしていた真壁も気づいたようだ。彼がライトを向けると、黒板の文字の末尾に、短い“点”が一つ増えていた。
確かに先ほどまではなかった。
黒板は、書き換わった。
誰も書いていないのに。
凛の背中を氷の指で撫でられたような感覚が走る。その直後──封印していたはずの出入り口の向こうで、外から叫び声が聞こえた。
「……うっ……!」
聞き慣れた声だった。
迅だ。
二人は駆け出した。廊下を走ると、テープの封印は破られていなかった。だが、玄関の扉は少しだけ開いており、外の冷気が差し込んでいた。
斜面を照らすライトの先に、人影が倒れていた。焚き火場の近く。呼吸の跡がない。
迅は仰向けに倒れ、唇の周りに黒い煤のようなものが付いていた。喉元にはわずかな焦げの匂い。何かで急激に酸素を奪われたとしか思えない。
「……死んでる?」誰かがつぶやいた。
凛の頭が真っ白になった。
校舎に戻ると、黒板の数字が変わっていた。
生存者点呼 12
無機質な白い粉の線。チョークの軋む音すら聞こえてきそうな、完璧な書き換えだった。
全員が固まっていた。涙を流す者も叫ぶ者もいた。先生が全員を室内に戻し、震える声で言った。
「一、夜間の単独行動は禁止する。
二、黒板監視は必ず二名以上。
三、“生贄”という言葉を安易に口にしない」
灯が泣きながら頷き、真壁は目を細めたまま、黒板に残った粉の跡を指でなぞった。
凛はそのとき、別の異変に気づいた。黒板の左上。薄い線が、小さく、重なった粉の影から浮かび上がって見えた。
席順は、動くな
誰が、いつ書いたのか。
事故の前か、後か。
そもそもこの校舎に誰が……?
凛の心臓が喉の奥で跳ねた。
夜明けの空気はやけに冷たかった。最初の点呼は十三だった。今は十二。
そして、黒板の文字は逃れられない現実として残り続けた。
笑い声は、もうどこにもなかった。
第一夜は、そんなふうに終わった。




