#1 どちら様ですか
「そういうわけで、我は【ロストピリオド】に関する一連の謎を解き明かしたい」
「どちら様ですか」
「だから、貴様にも協力してほしいわけよ」
「どちら様ですか」
「照れるなよ。我ら、大親友だろ」
夜霧台高校一年C組。その教室の片隅で、為田陸太は関わりたくもないクラスメイトの、するつもりのない会話に付き合わされていた。
「どちら様ですか」
この高校に入学してきて、一か月が経つ。しかし、陸太はクラスメイトの顔と名前を覚えることができていなかった。
否、正確に言えば、名前を覚えることはできている。入学式の日にクラスメイトの名簿が配られたから、全員の名前をしっかりと覚えることはできた。しかし、その名簿には顔写真が載っておらず、誰が誰なのかわからないという、学び舎で共同生活を送る上で、困難な状況に直面していた。それどころか、彼は高校入学を機に、この夜霧市に転居してきたばかりで、学校どころか街中にも知り合いはいない。
現状として、この街に、彼が知っている人間は家族以外に誰もいない。そのはずなのに、何故か大親友を名乗る男子生徒に絡まれ、今に至る。
「貴様、まだ帰宅部だろ。この学校で、部活に入らない人間は数える程しかいないぞ」
数える程でも、帰宅部の人間がいるならば、自分は何も間違っていない。それが、陸太の答えであった。間違えていないならば、自分は悪くない。悪くないなら、誰にも迷惑を掛けていないことになる。むしろ、迷惑を掛けている人間は――陸太はすぐに耳を閉じてしまいたい感情に支配される。ああ、ダメだ。今、これを言ったら、本当に僕の居場所は無くなってしまう。今度こそ、まともな生活を送りたいのに。ダメだ。聞こえないはずの、声が聞こえてしまう。これを言っているのは自分自身なのか。それとも目の前の男子か。
今すぐにでも、目の前にいる男子生徒に文句を喚き散らしそうになる衝動を抑え込み、陸太はすぐに鞄の中のヘッドホンを探り当て、手で乱暴に掴み取る。その瞬間、彼の衝動は海岸の波のように、一気に引いていった。安心感を覚えたのである。自分の世界へ溶け込んでいくための、切符のようなものだ。それが陸太にとって、ヘッドホンであっただけなのだ。
「ロストピリオドの技術理論は、誰が考えたものなのか。何のために、どのように造ったのか。貴様も気になるだろ。そういうわけで、我が校の陰謀論研究会に入らないか」
「失礼。用事、があるので」
ヘッドホンを耳に装着して、教室から走り去る。陸太のストレスはピーク寸前であった。
成立しない会話が延々と続く状況は、彼にとって恐怖の対象でしかない。得体の知れないモノ――彼は未知が苦手であった。本を読んで理解できることは問題がない。しかし、本を読んでも理解できないことは彼にとって、嫌悪感情と苦手意識、加えて苛立ちを混ぜ合わせ、床に吐き散らす衝動に駆られそうな、要するに形容し難い気持ち悪さであった。
「僕のせいじゃない、です。一方的な会話が悪い、です」
人の気配が無さそうな階段の踊り場まで、彼は走り切る。その直後、廊下を走ってしまったことを自覚し、結局、自分も悪なのだということを認識、吐き気を催す陸太。
周りの全てが悪意に満ちているような感覚に陥り、ヘッドホンを手で押さえる。大丈夫、大丈夫。僕には何も聞こえない。聞こえてくるはずがない。周りには誰もいないから。そう、言い聞かせて、陸太は深呼吸をした。滅茶苦茶であった呼吸のリズムが、徐々に整っていく。
「大丈夫、大丈夫――」
「落とし物だよ」
整ってきたはずの呼吸は、あっという間に乱れ始めた。突然、背後から声を掛けられたからだ。いるはずがない他人が、自分の世界に入り込んでくる状況、自分を保てなくなる感覚が、陸太を支配する。
その結果、陸太は足を滑らせた。これから身体がひっくり返り、後頭部に激痛が走るのだろうか。そのような痛みを彼は今まで味わったことがない。予測不能だ。続いて訪れた恐怖感情に対して催した吐き気を、なんとか堪え、陸太は目を瞑った。
目を瞑る直前。ぼんやりと見えた光景には、紅い長髪の少女がいた。彼女は一冊の本を片手で持ちながら、もう片方の手を陸太の方へ伸ばしている。
変な、音がした。
何かを、握るような、握り締めるような、そんな音だ。陸太はそう、認識した。