押したくなる
宿屋だから大丈夫だと思うのだが、一応襲撃を警戒して、何かあればいつでも起きられるような状態で眠った。
……あれ? ここは宿屋で、野宿ではないのだが。
まあ、状況次第だが、今日だけの話だと思うので、多少の寝足りない感は甘んじて受け入れよう。
……しっかり寝たいな。
隣の部屋も警戒しておく対象だったので、余計である。
そうして迎えた朝。
特に何かが起こることはなかった。
まずは、ホッと安堵。
何もなかったことを嘆くのではなく、喜ぶべきなのだ。
……ただ、寝足りないだけである。
欠伸を噛み殺しつつ、朝食を頂くために食堂へ向かうと、既にアイスラが起きていて待っていた。
「おはようございます。ジオさま」
「おはよう。アイスラ」
堪え切れずに長い欠伸が――。
「昨日のことがあるからでしょうか……今日の朝の挨拶はいつもと違ったように聞こえます。そう、今のはまるで一夜を共にした恋人同士の朝の挨拶のように感じられました。勘違い? いいえ、間違いありません。何しろ、ジオさまと私のとの間にある空気感には特有の甘いモノがあるのですから。ええ、ええ。間違いありませんとも」
出た。
「ん? 今、何か言った?」
「いいえ、何も」
欠伸中は周囲の音が遠くなるから、それでアイスラが何か言ったかと勘違いしたか。
多分、食堂の喧騒だろう、きっと。
実際に食堂に行くと、既に多くの人が座って賑わっていた。
席につくと、より鮮明に周囲の喧騒の内容が聞こえてくる。
「おい、聞いたか? 『血塗れの毒蛇』が壊滅したってよ」
「は? マジで? 冗談でもなんでもなく?」
「馬鹿か。冗談でも言えねえよ、こんな話。それがこうしてできる時点で察しろよ」
「ということは……本当なのか! え? は? どうやって? 昨日までそんな話は一切なかったぞ!」
「ああ、それはそうだが、小耳に挟んだところ、数人で『血塗れの毒蛇』の拠点をいくつか回って潰していったってよ。その中に本拠地もあったそうだ」
「は? 数人? それこそ冗談だろ?」
「詳細はわからねえよ。これについては色んな話が飛び交っているからな。まあ、かく言う俺も、実際は大人数で同時に襲ったんじゃないかって思っている。だが、『血塗れの毒蛇』が潰れたのは間違いない。何しろ、警備兵と冒険者ギルドが残りの拠点を潰していって、今もその後処理で忙しくなく動いているからな」
「はあ……寝て起きたらそんなことに。でもまあ、これでヘルーデンの居心地が少しでも良くなるなら、それに越したことはねえな」
「だな!」
「「はははははっ! 今日は良い日だ! 乾杯だ!」」
周囲から聞こえてくる喧騒は大体こんな感じである。
どこも喜びが溢れていた。
人によっては、周囲の景色が明るくなったように見えるかもしれない。
後々面倒そうになると思って潰したが、良いことをしたな、と機嫌よく食事を頂いた。
―――
食事が終わり、アイスラと今後についてや雑談をしていると、肩にぴゅいちゃんを乗せたハルートが姿を見せた。
俺とアイスラと同じテーブルにつく。
「遅かったな。ぐっすりと眠れたのか?」
かなり動かせたので、疲労は溜まっていただろう。
そう思ったのだが、ハルートは首を横に振る。
違ったようだ。
「ち、違う。なんかこう、いつ襲われるんじゃないかと気になって中々眠れなかっただけだ」
「なるほど。まあ、大丈夫そうだ。周りの声を聞けばわかる。今日からはゆっくり眠れるぞ」
そう言うと、ハルートは周囲の喧騒に耳を傾け……なんとも言えない表情を浮かべる。
「どうした?」
「なんというか、こう……これだけの事態を直に見ていただけじゃなく、それに自分が少し関わっていると……怖いというか、大人しくしていたいというか」
少なくとも調子に乗るよりは良いと思う。
それに。
「少し関わったと言うが、間違いなくきっかけはハルートだったと思うが?」
「そうだった……え? もしかして、俺が考えるよりヤバい? 報復される感じ?」
「だから、その大元が既に潰れたようだから大丈夫だ。それに、一対多ならまだしも、一対一ならそうそう負けないくらいにはハルートを鍛えるから安心しろ」
「そ、そうだよな。俺だっていつまでも守られる訳にはいかない。強くならないと」
「ぴゅいぴゅい!」
「そうだな! 一緒に強くなろう! ぴゅいちゃん!」
やる気を見せたハルートはその意志を示すように、朝食を多めに注文する。
ぴゅいちゃんの分も多めに頼んだようで、時間をかけて食べ終わった頃には、どちらも「……う、うぷっ」とお腹を大きくして吐き出しそうになっていた。
そのお腹……押してみたい。
―――
ハルートとぴゅいちゃんのお腹が落ち着いた頃に、冒険者ギルドへと向かった。
まあ、朝一で来い、と言われた訳ではないので大丈夫だろう。
冒険者ギルドの近くまで来ると、冒険者だけではなく、ギルド職員の姿まで見かけて、慌ただしく出入りしていた。
見かける職員の服装もいくつか種類があったので、動いているのは冒険者ギルドだけではないようだ。
そのまま見ていても仕方ないので中に入る。
「その書類は商業ギルドへ! もう『血塗れの毒蛇』の横槍はないから物流が良くなると合わせて伝えておけ!」
「冒険者の皆さん! 『血塗れの毒蛇』がなくなったことで、他の裏ギルドや闇組織が動き出す可能性があります! いつもより高額設定になっていますので、巡回依頼の受諾をお願いします! Cランクからです!」
「誰か警備の方へ連絡! 捕らえた『血塗れの毒蛇』の者に尋問して情報の整合性を確認したいから、その許可を取ってきて! いや、警備兵を連れてこい! その方が早い!」
表から見る以上に慌ただしかった。
なんというか、声をかけて手を止めさせるのが申し訳なく思ってしまうくらいだ。
どうしたものか。こちらとしてはいつでも構わないし、出直した方がいいかな? と思っていると声をかけられる。
「はあ。忙しい忙しい……あれ? もしかして?」
こちらを見て首を傾げたのは、「鉄の蛇」の時に対応した受付嬢だった。
そこからの話は早く、「あっ、ギルドマスターですね。話は聞いていますので、どうぞこちらへ」と受付を越えて、冒険者ギルドの奥へと案内される。
「忙しいのに済まない」
「いえ、皆さまは最優先事項だと通達されていますので」
話を聞くだけなので、そこまで重要ではないと思うのだが。
そう思いつつ、案内に従ってギルドマスター室へと入り、山のような書類に囲まれているマスター・アッドと会う。
案内してくれた受付嬢が居なくなったあと、書類仕事の手は止めずにマスター・アッドが口を開く。
「……来たか。手を止めるとヤバい状況だから、このまま話しても大丈夫か?」
「ああ、問題ない」
「済まないな。色々と話すことはあるが、最初に言ってくことがある。今回の件で辺境伯がお前たちに会いたいそうだ」
なんでもないように、マスター・アッドがそう告げてきた。
辺境伯「そろそろ私の出番かな」
作者「いいえ、まだです」