8 さくらんぼ
通常の月曜日が終わり、家にたどり着いた梨香子は、玄関に置きっぱなしなっていたご挨拶タオルをみて、クスッと笑った。
(おばちゃんだと思ったら、山下さんだった。)
退職するまで追い込まれた未来生命の辛い記憶の中で、微かに幸せだった時間を運んでくれる思い出に、いつも山下がいる事に気づいていた梨香子は、ひとりでに膨らみそうな期待を、ぎゅっと目を瞑る事で握りつぶした。
(さてと、明日のために今日もルーティーンな夜にしよう。)
月曜日は出来るだけ定時で上がるようにしている。
まだ余力があるうちに、週末に買い込んだ食材で常備菜を作ったり下拵えしたりするのだ。
梨香子はそんなに料理は好きでは無いし、得意でも無いが、お金のない時期になんとなく自炊する事を覚えた。
味噌汁の具のために野菜を刻み、小分けして冷凍し、残った野菜は漬物にする。
主食になるおかずは買ってくるか、レトルトである。炒めたりするのが面倒なので、たまご6個入りは全て茹で卵にしてしまう。
気が向けば麺つゆにつけて、味玉にしたりもするが、基本的に塩をつけて食べるのが一番好きだ。
段取りよく、1時間くらいで全ての仕込みを終えて、9時からのドラマを見ようと、テレビの前に座り込んだ時だった。
ピンポーンとチャイムが鳴った。
インターフォンの画面には背広のままの山下が映っている。
既にすっぴんで部屋着の梨香子は一瞬ためらったが応答ボタンを押した。
「はい。」
「リコちゃん、夜分にごめんね。会社でさくらんぼ頂いたんだけど、僕苦手で。リコちゃん食べないかな?と思って。さくらんぼ好き?」
「好き、、、ですけども」
「良かった!じゃ、これ扉に掛けておくね。」
ガサゴソっと扉の向こうで音がして、すぐに隣の玄関が閉まる音がして、静かになった。
「こういうところなんだよなぁ。」
梨香子は、玄関からスッとさくらんぼを回収して、食卓に置きながら、明るいため息をついた。
どこまでこちらの状況が分かっているかは不明だけれど、すっぴんでは出たく無いと知ってるかのように、さりげなく気を遣ってくれる。
「ずるいんだよねぇ。」
早速、パックの半分くらいのさくらんぼを洗いながら、淡い憧れを抱いていた頃の、過去の自分に話しかけるのだった。