7 山下真斗
翌日の朝、梨香子が出社するために、いつも通りの時間に家を出ると、隣の玄関が開いた。
出てきた男性を見て梨香子は驚いた。
以前の職場、未来生命の時の上司、山下真斗だったのだ。
「山下さん、ですよね?!」
「リコちゃんか?!」
梨香子はそもそも隣が空き家だったことも知らなかったし、昨日は一日中家を空けていて、引越しが隣だった事も気付いていなかった。
その上、まさかの元上司の登場に梨香子の頭の中は朝から混乱した。
しばらく驚きすぎて身動きが取れなかった2人だったが、エレベーターの通過で朝の出勤時間だった事を思い出した。
「あ、遅刻しちゃいますね!行きましょう。」
2人は足早に駅までの道を、話しながら、いや主に梨香子が今までの事を山下に報告しながら歩いた。
梨香子は未来生命に新卒で入り、あわあわするような日々を抜け、何とか仕事の枠組みが理解できた入社4年目、26歳の頃、山下の部下となった。
仕事の奥深さや面白さを教え、戦力になるよう育ててくれた上司でもある。
いつもシワのないスーツを着て、靴もしっかりと磨かれていた。
ちょっとこだわっているらしい少しごつめの文房具も、ちょっとしたギャップを生んでいて、スマートに見えた。
そして、厳しく叱りはするが、いつも信頼して多くの成長するチャンスをくれた。
まるで、教育実習に来ている先生の卵のような、そんな距離感で皆をまとめてくれていた。
いつも見守ってくれて、さりげなくサポートをしてくれて、話し上手で、優しい山下に、部署の女子社員は誰もが憧れていた。
しかし、左手の薬指には指輪がはまっていたし、まだ小さな息子の話を幸せそうにしていたので、誰も綻びを見つけて、壁を飛び超えてやろうとまでは思わなかった。
梨香子は(こんな人と結婚できたら幸せだろうな)とぼんやり、しかし実は、何度も思っていたのだ。
梨香子は、そんな山下に、道すがら不思議な気持ちで自分の話をしていた。
「ストレスで体調を崩してしまい、退職をしてから、結局同業の仕事に再就職し、家を買って実家を出たんです。」
「あっさり言うね。かなりのボリュームなのに。」
「ふふ、たしかに、ボリューミーですね。」
「そっかぁ、同じ仕事してるのか。どうせならウチで活躍して欲しかったなぁ。でもストレスかけてたんだよな。」
「仕事ってよりも、人間関係です。その辺りもボリューミーでしたので。」
「気付いてやれなくて、悪かったな。」
「いえ、山下さんには助けられたことしかないです。」
梨香子は話をしながら、山下の左手の指輪が無いことに気がついていたが、最後まで何も聞けないままに、長原の駅で別れた。