5 洗足池公園
次の日曜日、マンションの前に引っ越しのトラックが止まった。
(6月下旬に引っ越しなんて珍しい)
と思いながら、引っ越しのお兄さんたちのテキパキした筋力溢れる動きを横目でみながら、梨香子は習慣になっている朝の散歩に出かけた。
隣町の洗足池の美味しいパン屋『シンシア』が目的地だ。
中原街道沿いをまっすぐに10分も歩けば、洗足池に着く。洗足池の駅の裏手の坂を上がってしばらく行くと、リゾート地の外れにある隠れ家みたいな店構えの小さなそのパン屋『シンシア』がある。とても丁寧に作られたパンが魅力の人気店だ。
特に日曜日の朝はファンでごった返している。
こだわりのコーヒーもテイクアウト出来るので、天気のいい日曜日は、梨香子はその日の気分のパンとコーヒーを持って、駅の目の前に広がる洗足池公園に行くのを楽しみにしてる。
「今日はフランスパン系とふわふわ系のどっちにしよっかな。」
ドアを開けるとカランコロンと鐘の音が鳴って、元気な店員の声が響いた。
「おはようございます!いらっしゃいませ〜!」
店の中は、真ん中の平台にたくさんのカゴが所狭しと並んでいて、新しいパンや季節のパンが並んでいる。
レジの脇の冷蔵ワゴンには、惣菜パンと自家製のプリン、ワッフルやエクレアが並んでいる。中で職人さんが作っているのが見えるように上半分がガラスになっている壁側には、食パンやフランスパンなど、シンシア人気の食事パンが並び、棚の下には予約分のパンがコンテナに入って置いてある。
梨香子はいつも、真ん中の棚と、通り側の平台に並んでいる定番人気パンを一つ一つ試している。
梨香子は会釈をしようと店員に目を向けて、思わず足が止まった。
いつもの空間に唐突に訪れた違和感が押し寄せる。
「えっと。」
どこかで見た顔である。
とても最近会ったはずである。
しかし、うまく思い出せない。
頭の中の顔情報をフル回転させていると、満面の笑みを浮かべて青年が近づいてきた。
「中島さん、ですよね?」
(なんで名前、、、)
フル回転の頭に、この謎は大きすぎる。
梨香子は音が飛んで、同じところを繰り返しているのに止まれなくなったCDデッキのような頭を放置するしかなかった。
「制服じゃないと分からないかもですね。俺です。守谷です。この前商店街で、ひったくりに遭われた時にお会いしました。」
「あぁ!あの時のっ!」
こんな時に頭を巡ったことといえば
(お巡りさん→公務員→パン屋?→副業?!→大丈夫なのか?)などと考えてしまう自分が、なんだかとっても俗っぽく思えて、梨香子は誰にも聞こえないため息をついた。
「その節はありがとうございました。」
ちょうど、次は何を話せばいいのやらと悩みそうになるタイミングで、お客さんが入店し、梨香子はいつも通りパンをゆっくり選ぶことができた。
そして、コーヒーも買って、最後に会釈でもしようかとお店を見回したが、守谷は見当たらなかった。
店の外に出て、駅の反対側にある公園までの坂道を下り出すと、後ろから結構大きな声で呼ばれた。
「中島さん!ちょっと待ってください!」
振り返ると「爽やか」が洋服を着たような守谷が追いかけて来ていた。
「俺、ちょうどあがりなので、ご一緒してもいいですか?美味しいスイーツ系のパンもらって来ました!」
梨香子は子犬のような笑顔に押し切られるように、思わず頷いてしまい、そんな自分にびっくりした。
45年という歳月はそんなに短くはない。
多くの可能性を知るには充分な時間だ。
疑い出せばキリのないこのシチュエーションだが、
この笑顔の前では、どれも遠い世界の話のように感じ、しまいには(騙されたとしても、そんなに大きな害はない)という生まれたことのない感情が湧いてくるのだった。
洗足池のほとりには神社や休憩所、ボート乗り場や散歩道、勝海舟記念館や図書館などがあり、桜の季節には、特に多くの人が訪れる人気のスポットである。
水というのは不思議で、見ているだけで人の心を解くようなところがある。古から、洗足池は多くの人々の心を解き、受け止めてきたらしかった。
梨香子と守谷の2人は、子供連れの家族が遊ぶ「遊具広場」にある、藤棚の下のベンチに座り、パンとコーヒーを手に話し込んだ。
梨香子は、まるで昔からよくそうしていたかのような、でも、キラキラと何かが弾けてウキウキしているような、不思議な感覚に包まれていた。
洗足池公園の中を散歩して鳥や花などを眺めたのち、梨香子が仲のいい友達に言うようなつもりで、
「今からまた歩いて帰って、近所のスーパーに1週間に一度の食料買い出しに行こうかな。」
と言うと、守谷はもともとそんな約束をしていたかのように、ゆっくりと梨香子の歩幅に合わせて長原まで歩き、駅前のスーパーまで送ってくれたのだった。
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※ 洗足池商店街は実在し、洗足池の駅から急な坂を登ることも事実ですが、「シンシア」というパン屋さんはフィクションです。
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