3 長原/出会い
新卒で入った思い入れのある未来生命を辞めたあの日、梨香子は実家の玄関を通るのがあんなに苦しいと思わなかった。
退職の相談をしても「結婚するまで我慢したらどうだ?」とか「やめていったいなにをするの?」と反対されるばかりで、最後はいつも「もう少しだけ頑張ってみる」という台詞に辿り着く。
そんなことを何度か繰り返したものの、結局どうしても続けられなくて、最後は勝手に辞めてきたのだった。
あんなにがんばって玄関をくぐったのに、その日を境に家の空気はガラリと変わった気がした。両親と挨拶を交わしても、食事をとっても、元通りの自分でいられる家ではなくなっていた。
新しい仕事が決まるより前から、梨香子は(自分の家が欲しい)と思うようになっていた。
次の仕事を決めるモチベーションにもなると思った。
そして就職活動をしながら、いろんな街を歩いた。
その中で長原は、懐かしい感じの商店街が残るなんとなく『人情』なんて言葉が似合いそうな街だった。古さも大切にされているが、飾らない新しさも混在している。気取っていたとしても気取っていなかったとしても、どっちの自分も受け入れてくれそうな、そんな懐の深さを感じた。
駅から8分ほど歩いたところにあるマンションは、基本的に一人の人が多く住んでいて、1世代前までは高級マンション、今はリフォームをしてリノベーションマンションとして、家族用のマンションよりも静かに佇んでいる。
こうして梨香子は導かれるように、『自分の家』を手に入れることになったのだった。
(不動産屋さんと一緒に駅からの道のりを歩いていたあの時、美味しいコロッケの匂いがしてたな)と
思い返した辺りで、ベンチに腰掛けていた梨香子の目の前に自転車が止まった。
先程のお巡りさんが颯爽と降りて、梨香子の足元に身をかがめた。
「落ち着かれましたか?お忙しいことと思いますが、被害状況などを詳しくお尋ねしたいので、すぐ近くの交番へお立ち寄りいただけますか?」
「あ、はい。分かりました。」
梨香子はコーヒーと買い物袋を手に持つと、立ち上がろうとしたが、小さくふらついた。
「おっと!あぶないっ!大丈夫ですか?」
力強く腰を支えられて、梨香子はドキリとした。
「ちょっと不安定ですが、こちらに座ってください。」
お巡りさんは梨香子を自転車に乗せると、後ろからハンドルを持って歩き出した。
あまりの密着度合いに、梨香子の胸は高まりっぱなしだ。
梨香子はサドルに座っているものの、引っかかりそうな足をどうしていいのか分からず、変な姿勢で固まっていた。しかし、あまりに不安定だったので、ペダルに足を乗せてみた。が、漕いで良いのか漕がないほうが良いのか分からず、なされるがまま運ばれていくことになり、どうしたらいいかあれこれ考えている間に交番に到着したのだった。