悪役令嬢ヴィクトリア
近藤 武は悪役令嬢である。世界征服を企む悪の組織B・J団に誘拐され、この世の地獄とも思える過酷な人体実験に晒された近藤は、人の貌を失い、悪役令嬢となった。実験の最終段階、世界征服の尖兵にふさわしいケダモノの心を植え付ける洗脳手術の始まる直前、彼に宿った悪役令嬢の力は制御を失って暴走し、四阿屋山にあったB・J団埼玉支部は壊滅する。崩壊の混乱に乗じて近藤はB・J団の手を逃れ、姿を消した。
これは、未来を奪われ望まぬ力を背負わされた青年の、孤独な戦いの物語である。
「シャーコシャコシャコ! おかしなマネをするんじゃないぞ! 子供たちがどうなってもいいというなら話は別だがな!」
昼下がりの県道一五〇号上尾蓮田線に奇妙な笑い声が響く。ヒヨコを思わせる黄色の幼稚園バスが道をふさぐように停車し、その周りを黒の全身タイツの、男とも女とも分からぬ人型の何かが囲んでいた。その数はおよそ二十。B・J団の戦闘員である。そしてその戦闘員を率いているのが先ほどの奇妙な笑い声の主――海老怪人シャコタイガーであった。
「上尾市長に伝えろ! 人質一人当たり十億、二百七十億円を一時間以内に用意しろとな!」
幼稚園バスには運転手と保育士が一人ずつ、そして二十五人の園児たちが閉じ込められている。恐怖に震え、泣きだす園児たちを、二十を過ぎたばかりであろう保育士の女性が気丈な笑顔で励まし続けていた。上尾蓮田線は警察によって封鎖され、埼玉県警から派遣された機動隊がシールドを手に戦闘員を十重二十重に囲んでいる。しかし県警の精鋭部隊といえども、人質を取られては手も足も出ない。
「用意できぬと言うならそれでもいいぞ! だが人質の命より金を優先するならば、その判断は永く埼玉県下に語り継がれることになろう! その覚悟がおありかな? シャーコシャコシャコっ!!」
シャコタイガーは再び耳障りな笑い声を上げた。追従するように戦闘員たちが「キーッ」と叫ぶ。園児たちがその声に肩を震わせ、保育士が近くの子供をぎゅっと抱きしめた。機動隊員たちの顔が悔しさと焦りに歪む。子供たちをこれ以上強いストレスにさらし続ければ心身に影響が出かねない。一刻も早く救出しなければならないことは、その場にいる誰もが認識していた。しかし警察は人間を制圧する訓練は積んでいても、怪人を制圧する訓練を積んではいない。突入の判断をためらう県警上層部は現場に待機を命じ、事態は膠着していた。しかし――
「待てぃ!」
怪人の哄笑をかき消す大音声が県道に響き渡る。精悍な、しかし他者への優しさに溢れたその声は、不安に澱んだ空気を見事に吹き飛ばした。恐怖に震えていた園児たちも、不安を押し殺していた保育士も、焦燥に耐えていた機動隊員たちも皆、顔を上げて声を発した人物を見る。黒のライダージャケット姿のその男は、腕を組み、街灯の上にすっくと立っていた。
「何者だ!?」
シャコタイガーが動揺を隠せぬ様子で鋭く誰何の声を上げる。問われた男――近藤武は怒りに燃える瞳でシャコタイガーを射抜いた。
「園児を人質に金を奪おうとは言語道断! その悪事、見過ごすわけにはいかん!」
とうっ、と気合を発した近藤は、街灯を蹴り空へと跳躍する。その身体が最高高度に達したまさにそのとき、近藤はまばゆい光に包まれた。
説明しよう! 近藤武の正義の怒りが頂点に達したとき、近藤武は悪役令嬢へと変身するのだ!
「ごきげんよう、B・J団の皆様」
ふわりと優雅に地面に降り立った時、近藤はすでに悪役令嬢へと姿を変えていた。漆黒のバロックドレスに身を包み、豊かな金の髪は高く結い上げられている。赤い唇は鮮血を思わせ、白磁のような肌がその赤をさらに強調していた。手には絹の洋扇を持ち、口元に酷薄な笑みを浮かべている。しかし何より印象的なのはその瞳――すべてを見通す透徹した蒼い瞳であった。世界を睥睨するかのごときその瞳は、彼女が悪役令嬢であることを無言のうちに知らしめている。その場にいるだけで周囲を威圧する圧倒的な品格に、シャコタイガーは我知らず一歩退いた。
「くっ、性別どころか骨格まで変わるなど非常識な! 名を名乗れ!」
気圧されたシャコタイガーの虚勢に、悪役令嬢は洋扇を開いて口元を隠すと、やや目を細めて見下したような視線を返した。
「名を問うならばまず己が名乗るのが礼儀ではなくて?」
悪役令嬢に礼儀を説かれたことが屈辱だったのだろう、シャコタイガーが海老面を引きつらせる。
「オ、オレの名はシャコタイガー! B・J団上尾方面攻略部隊長だ!」
甲殻類にしては豊かな表情で動揺を表しながら、意外に素直にシャコタイガーは名乗りを上げた。しかし悪役令嬢はひどく冷淡な声で吐き捨てる。
「下品な声ですこと」
「な、なんだとぅ!?」
思わず身を乗り出したシャコタイガーを周囲の戦闘員が必死に止める。悪役令嬢はその様子を鼻でせせら笑うと、よく通る涼やかな声で言った。
「まるで品性の感じられぬ名乗りであっても、応えねば貴き血の責務に反するというもの。いいでしょう。皆もよくお聞きなさい。私の名はヴィクトリア。もはや誇るべき家名も門地も持たぬ身なれど、口さがない者たちは私をこう呼ぶわ」
ヴィクトリアは口元を隠していた洋扇をぱちんと閉じる。硬質の音が周囲に広がった。
「――悪役令嬢、と」
シン、とした静寂が降り、シャコタイガーが身じろぎ一つすることなくヴィクトリアを見つめる。戦闘員たちが戸惑いと共にシャコタイガーとヴィクトリアとに交互に視線を送っている。のどの渇きを潤すようにゴクリとつばを飲み込み、シャコタイガーはややかすれた声で叫んだ。
「ええい、訳の分からぬことを! お前たち、そのふざけた女に少しばかり痛い目を見せてやれ!」
シャコタイガーの命令に応え、戦闘員の半数がヴィクトリアに向かって走る。機動隊員たちの間に緊張が走った。民間人が危険に晒されているのだ。隊員たちは隊長の判断を仰ぐべく一斉に振り返る。隊長は冷たい汗を額に浮かべ、口を真一文字に結んでいた。上層部の命令は未だ待機なのだ。
十人の戦闘員がヴィクトリアを取り囲む。しかしヴィクトリアは冷笑を浮かべ、動揺する様子もなくただシャコタイガーを見つめていた。戦闘員など眼中にない、そう言わんばかりに。
「キーッ!」
戦闘員の一人が声を上げ、それを合図にヴィクトリアを囲んでいた戦闘員たちが一斉に襲い掛かる。幼稚園バスからヴィクトリアを見ていた保育士が思わず「危ないっ」と叫んだ。しかしヴィクトリアは優雅に佇んだまま、攻撃を避けようという素振りさえない。そして戦闘員の拳がヴィクトリアを捉える、誰もがそう思った瞬間――
「愚かね」
ヴィクトリアの持つ圧倒的な財力が暴風となって吹き荒れ、彼女を囲む戦闘員たちを一瞬のうちに吹き飛ばした! 戦闘員たちは地面に転がり、苦しそうなうめき声を上げる。ヴィクトリアは閉じた洋扇を倒れている戦闘員の一人に向けると、侮蔑と憐憫の混ざり合った瞳で見下すように告げた。
「身の程を知るがよい」
十人の戦闘員を一瞬で無力化した悪役令嬢の財力に恐れをなしたのか、残った戦闘員が「キーッ」と弱々しく声を上げる。シャコタイガーは戦闘員たちの動揺を打ち払うかのようにひときわ大きな声で叫んだ。
「ええいこしゃくな! こうなればオレ自らが相手をしてやる!」
言葉の終わりを待たずにシャコタイガーはヴィクトリアに向かって駆けだした。再び機動隊員たちに緊張が走る。誰かが「隊長っ!」と叫んだ。しかし隊長は無言のまま唇を噛んでいる。上層部の判断は変わらない。上層部には現場の警察官の安全に対する責任がある。上層部は、ヴィクトリアが現場の警察官たちが危険を冒しても保護すべき民間人なのかどうか、判断しあぐねていた。
シャコタイガーの、ハサミ状の鋭い左手がヴィクトリアに迫る。しかしヴィクトリアは優雅なステップでその攻撃を左にかわした。拳の風圧がヴィクトリアのバロックドレスを切り裂き、レースの一部がちぎれ飛ぶ。ヴィクトリアはわずかに目を見開き、楽しそうに笑った。
「少しは楽しめそうね」
「B・J団の怪人をなめるな!」
空を切った左手を、シャコタイガーは一歩ヴィクトリア側に踏み出すと同時に横薙ぎに払った。ヴィクトリアは手の洋扇で迫るハサミを迎撃する。シャコタイガーのハサミとヴィクトリアの洋扇が交錯し――
「バ、バカな!?」
ヴィクトリアの洋扇はハサミの威力を見事に受け止めていた。洋扇に抑えられたシャコタイガーのハサミはピクリとも動かない。ヴィクトリアの持つ圧倒的な権力によって、シャコタイガーの攻撃は完全にもみ消されたのだ。
「くっ、おのれ!」
仕切り直すつもりか、シャコタイガーは大きく後ろに跳躍してヴィクトリアとの距離を取る。ヴィクトリアは再度洋扇を開いて口元を隠し、その顔に嘲笑を浮かべた。
「もうお終いなのかしら?」
ヴィクトリアの挑発に激高し、シャコタイガーは怒りを漲らせて叫ぶ。
「なめるなと言ったはずだぞ! このオレの真の力を見せてやる!」
シャコタイガーはどこからともなくサッカーボールを取り出し、これ見よがしにヴィクトリアに向けて掲げた。
「オレはB・J団によって世界最高のシュート力を与えられたシュート怪人! 海老反りの姿勢から放たれる必殺のシュートは、あらゆるものを粉砕する!」
「あなたのシュートが世界最高?」
声高に自らの力を誇るシャコタイガーに、ヴィクトリアは不快そうに眉をひそめた。
「何を勘違いなさっているのかしら? あなたのシュートは世界最高どころか、間違いなく三流以下ですわ」
「そのセリフは実際にオレのシュートを見てから吐くがいい! もっとも、このシュートを見たときがお前の最期の時だがな! 喰らえ! 必殺海老反りシュート!!!」
シャコタイガーが手のサッカーボールを大きく空に放り投げる。と同時に自らも高く跳躍し、空中で弓を引き絞る如く背を反らせる。そしてたわみ蓄えられた力を一気に開放し、その頭でサッカーボールを強力に打ちすえた。凶悪なまでの力を込めたヘディングシュートは大気をねじ切るような摩擦音と共に正確にヴィクトリアに迫る! しかしヴィクトリアは平然と右足を後ろに振り上げると、左足で地面を蹴り、後方宙返りの要領で回転しながら迫りくるサッカーボールをダイレクトに蹴り返した! サッカーボールがありえないほどに大きく歪み、カウンターによって倍加した力が空中で無防備な姿を晒すシャコタイガーに突き刺さる。衝撃に耐えられずサッカーボールは破裂し、シャコタイガーは受け身も取れずに地面に落下した。
「そんな、ばかな……オレのシュートが、破れるなんて……」
地面に倒れ伏したまま、シャコタイガーは呆然と呻く。ヴィクトリアはシャコタイガーの横に立ち、敗者の姿を傲然と見下ろした。
「サッカーボールを武器として選んだ時点で、あなたはすでに三流以下なのですわ」
シャコタイガーは大きく目を見開き、そして観念するように目を閉じた。ヴィクトリアは冷酷な瞳のまま、シャコタイガーに告げる。
「私の質問に答える栄誉を、あなたに授けましょう。偽りなく答えよ」
ヴィクトリアの表情に、わずかな痛みと悲しみの色が浮かぶ。
「佐伯吾郎を殺したのは、あなた?」
シャコタイガーは目を閉じたまま、首を横に振った。
「……オレはその名を知らん。実戦は今日が初めてだ」
ヴィクトリアはわずかに落胆のため息を吐く。そしてもはや興味はないと、シャコタイガーに背を向けた。洋扇を開いて口元を隠し、
「ごめんあそばせ」
よく通る声で、誰にともなく別れを告げる。ぱちんと洋扇を閉じると、それが合図であったかのように、シャコタイガーの身体が爆発四散した。
「ブラックジャスティス万歳!」
シャコタイガーの最期の絶叫が響く。B・J団の洗脳はその死の間際でも解けることはない。ヴィクトリアはわずかに目を伏せた。
シャコタイガーの死によって、幼稚園バスを囲んでいた戦闘員たちは雨に打たれた泥人形のように形を失い、黒い染みだけをアスファルトに残して消えた。戦いを終え、ヴィクトリアの身体を強い光が包む。光が消えたとき、その姿はライダージャケットに身を包んだ青年――近藤武に戻っていた。激しい疲労に襲われ、近藤は地面に膝をつく。右手で額を覆い、近藤は深く長い息を吐いた。
怪人たちが消え、機動隊は幼稚園バスから園児たちを次々と保護していく。園児と保育士、そして運転手は検査のため、救急車で病院へ運ばれていった。事件の後処理のため警察官が目まぐるしく行き交う中、県警機動隊隊長、岩倉憲一郎は近藤の前に立った。
「あなたは、何者だ?」
近藤は問いに答えず、膝をついたまま地面を見つめている。何者か、という問いに答える術を、近藤は持っていないのだ。近藤武という男がヴィクトリアに変身するのか、ヴィクトリアが平時に近藤武となるのか、どちらが本当の自分なのか、日を追うごとにその境界はあいまいになっていく。混濁する自意識の中、近藤はあえぐように息を吸った。
「ご同行願いたい。あの化け物連中のこと、あなた自身のこと、聞きたいことはいくらでもある」
岩倉は硬い声で近藤に告げる。しかし近藤は首を横に振ると、右手首に付けた腕時計に向かって小さく呟いた。
「来い、ガルーダ」
近藤の声に応えるように、無人の大型バイクが轟音と共に上尾蓮田線を疾走し、近藤のいる場所めがけて突撃する。周囲にいた警察官が慌ててバイクをかわした。近藤はひらりと跳躍すると、疾走したままのバイクに飛び乗って走り去る。去り行く近藤の背に、岩倉は切実な感情を叩きつけるように叫んだ。
「あなたは何者だ! あの連中は何者だ! 次に奴らが現れたとき、オレ達はどうやってあの化け物と戦えばいい!」
岩倉の叫びに、しかし近藤からの返答はない。岩倉は唇を噛み、拳を強く握りしめた。
近藤武は悪役令嬢である。悪の組織B・J団にさらわれ、悪夢の人体実験の末に、人の心を持ったまま人の貌を失った近藤は、哀しみと復讐の炎を胸に、B・J団との孤独な戦いに身を投じる運命を負った。悪の野望を挫くため、自分と同じ悲しみを背負う者を決して生み出さないために、近藤は今日も戦いに赴く。
戦え、近藤武! 戦え、悪役令嬢ヴィクトリア! B・J団を壊滅し、世界に平和が訪れる、その日まで!
悪役令嬢って何ですか?